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   葦笛コレクション
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作品36(歌集「漏告」より)                             2009.9.6
 
人として在るさびしさは終ひ湯に  首までつかりゐるときにくる
                         外塚 喬(朔日
  おそらくは、家族も寝入った深夜、「終ひ湯」に入り、身体の疲れを  とるべく作者はゆったりと浴槽に「首までつかりゐる」。言うまでもな  く、だれに対して鎧うことなく、丸裸のまま湯の中に己れを投げ出して  くつろいでいるわけであるが、まさにそのとき、作者の想裡に「人とし  て在るさびしさ」がゆくりなく突き上がってきたのである。   その理由、意識の脈絡の必然は語られていない。しかし、このように  無防備にひとり己れと向き合っているとき、なにか根源的なさびしさの  感覚に囚われたことは、充分に推察できる。「人として在るさびしさ」  という表現に過ぎこし方を背負う万感の想いがこめられている。

作品37                                       2009.9.13
 
五臓六腑さらしてゆけば灼くる野に わらわらと立つ縄文の土器
                        大塚 青史(砂金
  縄文土器がその当時のままに散乱している遺跡を訪ねたときの作品で  あろう。その遺跡に足を踏み入れることは、作者にとって、己れ自身に  つながるはるかな来歴を尋ねることである。それは自らを投げ出すよう  な心もちなのかもしれない。それを作者は「五臓六腑をさらす」といっ  た物々しそうで、どこか軽妙なニュアンスで表現している。其処は、は  げしく陽の照りつける「灼くる野」であり、「わらわらと」縄文の土器  が立っているのである。おそらく、非日常の時間がにじみ出しているよ  うな気配のなかに、作者は、まるで、己れの内なる縄文人の影がそこに  在るような錯覚にくらくらとしているのであろう。   古い和語「わらわらと」という言葉が散乱の意味だけでなく、なにか  乾いた土の非情な感触をかもしてくるのはなぜか。

作品38                                       2009.9.20
 
リハビリに24まで数えし時24が目立つトラックがゆく
                        吉田 久子(砂金
 物事を認知する人間の意識の不思議を捉えており、ユーモアを通り越し て、どこか人間の不覚のもろさまで感じさせる。リハビリのトレーニング の動作を24まで数えた。やっと辿りついた24という数値に意識が集中して いるとき、窓の外に見えたトラックの車体に描かれた24の文字に気づいた のである。「24時間営業」といった宣伝文句だったのかも知れないが、別 のときなら目にもとめない数字であろう。こういうことは、だれにでもあ る。秒針ではなく数字で時刻を表示するデジタル時計の場合も、なにげな く見て気づいた時刻が「12;12」とか「15:15」だったりする。これは、逆 を言えば、その他の時刻も見ているはずなのに、意識にとらえていないと いうことであろう。

作品39                                       2009.9.27
 
咲き満てる薔薇に声あげ挙げてのち いかにまずしきわれらが賛辞
                        松田 晴子(砂金
 咲ききった満目の薔薇の美しさに感嘆の声をあげたのち、それでも言い つくせない物足りなさを実感した作者は、「いかにまずしきわれらが賛辞」 として、感動することとそれを表現する言葉との乖離に失望の意を吐露し ている。思えば、言葉による「賛辞」は一つの解釈にとどまるものでしか ない。薔薇の美を言葉にすることと薔薇を愛づることや薔薇の香気に浴す ることとは違う。さらに言えば、薔薇は、人間から自身が薔薇と呼ばれて いることを知らず、美しいと感じられていることも知らない。無関与なの だ。薔薇は起こるべきことが起きている存在の次元にある。  私たちにできることは、安直な言葉をしりぞけ、そうした薔薇の開花の 不思議をうけとめるだけなのかも知れない。その受容の深みにおいて、も しかしたら私たちのいのちに通底する神秘の一瞥があるのかも知れない。