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葦笛コレクションVol.2

葦笛コレクション
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作品24                                           2009.6.7
 
大広場対角線に横切りぬ萌え出づる草の青き香のして
                         藤本奈々子(砂金
植物園などに出かけた際の歌であろうか。辺りは「萌え出づる草の青き香」 に満ちている。そのいのちの息吹のどまんなかを挑むがごとく、大広場を対 角線に横切る…。平明な歌柄ながら、そこに自らを前向きに押し出す意志が 感じられてくるのはなぜか。いまここに生きて在ることに対する強い意識が 働いていると思う。  ちなみに、作者は、以下の歌にあるように由々しい疾患をかかえておられ るのだが、それを「悪友」として受け入れようとする。  悪友にこれだけ好かれているならば長く付き合う術を探さむ       肋骨と横隔膜の陰にありし〈変な友達〉見つけだされて  外からやってきた災難ではなく、自らの内部に自ら抱え込んだものとして、 じっくりと向き合おうとしているのである。その強いちからは、心とからだ のさらに深いところから出てきているのだと思う。

作品25 歌集「くさらぬ詩人」より                          2009.6.14
 
 目覚むればしぐるる蝉の声たえてわが身一つが

 投げ出されをり
                            入谷 稔(夢殿

夏のまひる、激しいまでの蝉しぐれのなかで昼寝をしていたはずなのだが、 ふと目覚めると蝉の鳴き声がいつのまにか熄んでいる。午睡から覚めやらぬ茫 洋たる意識において、作者はしづかな昼の底に「わが身一つが投げ出されてい る」という感覚にとらわれているのである。その次元は、日常の出来事の世界 ではなく、そこに在ること自体に直面せざるをえない次元、おそらくは虚ろで ありつつ、いのちの横溢する「いま・ここ」なのだ。「存在のみなもと」と言 い換えられるかも知れない。  その「いま・ここ」は、つねに在りながら、こんな風にして突然ひらかれる のだ。  入谷氏は、歌誌「夢殿」の編集人。私が最も信頼する歌びとの一人である。

作品26 歌集「くさらぬ詩人」より                          2009.6.21
 
 花苑の朝の香の中ひょうひょうと
 
 ゆけば自浄のおのずから来よ

                            入谷 稔(夢殿

入谷氏の作品をもう一首。色とりどりの花が咲いている花苑、とりわけ清新 な朝のひかりのなかに花の香りがあふれている。作者は、その花の祝祭のまっ ただなかに在る。おそらく、過去にとらわれ未来に思いを馳せる思念の動きは そこに無く、ただそこに在るだけであろう。くつろぎというよりも心身ともに 開け放っている状態なのだ。その心地が「ひょうひょうとゆけば」に表現され ていると思う。そうした開け放ち(Let it go)において、作者はふとしも「自 浄のおのずから来る」という予感に囚われたのだ。至高体験と言えば、大袈裟 にすぎるが、全面的に「いまここに」在るとき、根源的な喜びあるいは癒しの ごときものが、前ぶれもなくこのように訪れるのではないだろうか。

作品27 歌集「風をまといて」より                          2009.6.28
 
  捨てがたく干すバスタオル

  子とわれの間の風にはためきており


                         田土 才恵(地中海

 家族が長年、愛用してきたバスタオル。当然、愛着があり、なかなか捨てが たい。そのバスタオルをわが子と物干し竿に干しているとき、ふとしもバスタ オルが風にはためく。日常のさりげない情景を切り取った作品であるが、ここ に人間のもつこまやかなこころの襞の陰影が、抑制の利いた表現のなかに翳っ ている。  とはいえ、こうした微かな人なつかしい情感は、やはり女性・主婦でなけれ ば捉えられないものであろう。ここではバスタオルは、作者の分身のごときも のとなっている。次の作品も同然である。 ・ひと夏を好みはきたるスカートの白も疲れぬ風秋となる ・あづけおく心とならん水羊羹作りて寝ぬる少しつかれて