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    葦笛コレクション
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   Vol.1   
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作品1                                            2009.1.3
 
 しんしんと春の光に老いてゆく海と歳月と男と未来  

                            鳥山 佳宏(砂金
 
 春の光は万象のいのちを輝かすものとはかぎらない。 残生の思いに直面する心には、 春の光はむしろ「老い」を意識させるものとなる。作者はそのことを「しんしんと春の光に老 いてゆく」もろもろという客観描写の文脈で捉える。なんと思いをひそめた観照であろう。 「海と歳月と男と未来」と列挙されたものの意味、その関連をことさらに問う必要はない。こ のように列挙してみせる、しずかな諦観のニュアンスに感じ入りたい。  本年一月号の詠草には、以下の作品がみられる。  「やわらかな光をまとい遠い空に命のような白い雲浮く」

作品2                                            2009.1.5
 
 はるばると白き浜辺に日は照りてこの世ともなく座りし親子
  

                     宮崎ひろ子(砂金・同誌編集人
 
 一見すると、明るい浜辺の長閑な風景のごとくである。しかし、この言葉の世界に孕ま れているものは、湿潤な次元を突き抜けた悲しみの結晶のごときものではないか。「はる ばると」日が照っている、いちめん真白な浜辺…。そこはすでに異界なのだ。そこに「この 世となく座りし親子」とは、この世ではもはや時を同じくしえない親子ではないか。もし魂 というものがあるとしたら、この世界は幽明へだてた魂が相寄る時空なのかも知れない。  平明な叙述表現がそのまま異次元を幻出させる、この不思議はなぜか。  ちなみに、本年一月号では、次のような作品を寄せている。  「さくら散るさくら散りゆく川べりをあゆみたし 亡き娘と共に」

作品3                                            2009.1.11
 
 とこしへにつづく八月たたかひに敗れはたまた妻の逝きし日 筍を煮てもはたまた山椒の香り立てても食ふひとゐない
                               塩谷いさむ(砂金  
 「塩谷節」の面目躍如たる作品。身めぐりのこもごもをさりげなく取り上げつつ、それらの 穏やかな衝突のなかに孤愁といったものを囲い込む。そこに作者独特のペーソスがかもし だされる。  その手法、構成の端的なキーワードが掲出歌二首にみられる「はたまた」という接続詞で ある。あの太平洋戦争という「たたかいに敗れし日」も「妻の逝きし日」も同じ八月であり、同 じく作者の心奥にとどまったままであることにいまさらに気づいているのだが、その気づきを 平面的な事実の並列に陥らせないのは、「はたまた」とおもむろに提示する文脈の妙、その 韜晦気味な語り口のゆえであろう。こうした気息もまた「表現」の大きな要素なのだ。  二首目の作品も同然である。

作品4                                            2009.1.18
 
明日といふ日のあることを当然といつものやうに門しめてゐる
  

                            松井なるみ(砂金
 
  机とか椅子はそこに具体的な対象として在るものだが、「明日」はまったくもって観念に  すぎない。明日になれば、その名指した明日は立ち消えて、新たな明日という観念が発  生するだけで、いつまで経っても明日という実体と出会うことはない。にもかかわらず、私  たちは「明日といふ日のあること」の予断を繰り返しながら、今日のいま・ここから「よそ見」  をしてしまう。花のように、かけがえのないいのちの一日一日を全面的に在ることがない。   この作品は、穏やかに過ぎる日常が、その実、いわれのない予断にやりすごされている  こと、その危うさに対する怯(おび)えを孕んでいる。   ひと日の終わりを閉める「門」は、家屋の門でありつつ、また別な象徴的な意味を持ち  始めているいのちの祝祭は門を開ければ、いつもそこに溢れていると思いたい。

作品5                                            2009.1.25
 
 常設の血圧計にひっそりと手をさしのぶる 刻のすぎゆき
  

                             大崎靖子(砂金
 
  最近の病院では、 待合いフロアの一角に診療を待つ人が自由に利用できる血圧測定 器が設置されている。作者もまた、その装置を利用したのだが、 あまりに長く待たされてい る無聊を解消する気持ちも働いていたのかも知れない。 作品の背景としての事実は以上 である。 しかし、ここで作品自体から伝わってくるものは、無聊の思いに浸透するどこかす さんだ 「刻のすぎゆく」 けはいであり、そこには病む身に対するおののき、さらには生きて 在ること自体へのおののきが翳っている。   第三句「ひっそりと」は、手を差しのべることの擬態語としてだけではなく、作品全体の沈 潜したニュアンスを統べる重要な働きをしている。