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作品49(歌集「花の雲」より)                          2009.12.6
 
寒牡丹の風に吹かれて散り溜る  重ね重なり花びら浄土
                        中川左和子砂金
 日本古来の「雅」の世界を彷彿とさせる美しい歌である。冬の花が寒気 のなか凛と咲いている姿は、なんともいえない清冽な趣きがある。とりわ け寒牡丹は華麗な花だけに、その印象がきわだつ。春や夏の花なら、盛ん ないのちの発露として花をうけとめられる。しかし、万象が枯色に染まり、 裸木がその影を濃くする冬の季節に咲く花というのは、いかなる意思なの かと思う。そうした寒牡丹の花が、風に吹かれるままに惜しげもなく散る。 作者は、その花びらが地上に重なったさまを「花びら浄土」と荘厳する。 おそらく、冬に咲き、そして散る花の姿に「たましいの浄化」というべき 類想を重ねているのだと思う。「浄化」に関連する以下の作品もある。 ・日照雨降るこの昼下がり野の風にふれ合ふ芒の浄きおとする

作品50(歌集「花の雲」より)                        2009.12.13
 
括られしままに斬られて  残菊の月の光に照らされてゐつ
                        中川左和子砂金
 「花の雲」からもう一首。この作品もうっとりとするような「雅」の世 界である。もちろん、ただ美しいイメージを造型しているのではなく、人 間の心の深部のおののきに根ざしつつ、巧みな言葉の周旋によって、身め ぐりの事象を雅の世界へと高めているのである。次の作品も同然。 ・弓なりに曲がりて咲ける虎尾草の星明りのなか尾を垂らしたり  「月の光に照らされる残菊」も「星明りのなかの虎尾草」も、具象とし ての怜悧な存在感を保ちつつ、そのまま抽象化されたどこか不穏な異形の 世界のけはひを放っている。  それにしても、作者の作品は、丁寧かつ正確に言葉が選びぬかれたもの であり、しかも、あり余る思念や情感を抱えながらも、抑制された表現に 徹しておられることに感服するばかりだ。

作品51(歌集「鼓 TSUZUMI」より)                     2009.12.20
 
今生きて歩みておりぬ  死後もまたいま生きて歩みいると思うや
                      山下和夫埴・発行人
 作者は「あとがき」において、独自の「詩」の方法意識を述べている。  ―すこしく気にとめてきたことは、実在と不在の両者の間には、それを つなぐ分厚いハーフな詩的領域があること。そして、そこから両者を見る ことであった。そうすることによって、これら三者はつねに揺らぎつつ互 いに影響しあい、実在は、実在でありつつ実在ではなく、不在も、不在で ありつつ不在ではない象を醸し出す。言いかえれば、ハーフな領域の挿入 によって、実在と不在、または、此の世と彼の世、真と偽などといった明 確な断絶は溶解され、三者は混沌としてゆれ動く詩的領域を創り出す。  これは、見えるものと見えざるもの、生と死、具体と抽象などの二元論 を越えたところのものを幻出させるための仮構された視点を語っている。 この掲出歌は、その方法意識をあらわにしたものと言える。「此岸にあっ て今生きて歩む自分」と「彼岸にあっていま生きて歩む自分」を同時に見 すえる仮構の視点において、作者は混沌とした意識の深みにゆらめき落ち るのである。 ・ここにいぬ者たちのため ここにいぬ者たちと鼓打ちてそうろう ・長塀を揺れて脱けたるわれの影ふたたびこの世の土歩みいる  これら作品も同じ意識の構造を持っている。実存の次元の推移と不在の 次元の推移は、同時進行しているのではといったおののきにおいて、作者 は「詩の現実」を「全体把握」しているのだ。

作品52(歌集「鼓 TSUZUMI」より)                     2009.12.27
 
忘れいしごとくに忘れられている  われのほとりに梅咲いている
                      山下和夫埴・発行人
 同じく歌集「鼓 TSUZUMI」から。実存と不在の混沌とした、おののきの 世界をひらく作者であるが、掲出歌のような抒情的な作品もみられる。  述懐の対象である人は、若き日に語り合い、ときにはぶつかり合った同 志なのか、あるいは愛をささやき合った恋人なのかはわからない。いずれ にせよ、人生の変転のなかでいつしか縁遠くなった人がいる。たしかに今 の日常において、その交誼は過去のもの、私が忘れていたようにその人か ら忘れられているはずであろう。人生の出会いは、そのときどきの花かも 知れぬ。その花の季が終わったものは終わったものなのだ。すでに私はそ のときの私ではなく、その人もそうなのだ。作者は眼前の梅の花を眺めな がら、そうした身めぐりの実相を肯定も否定もせず、観照しているのだ。  以下の作品も同然。いわゆる境涯を詠嘆する感傷的な歌の様相を呈しな がらも、人生の苦さや重さを濾過した慈味をたたえている。 ・ ありへたる言葉を交わすのみにしてまた忘れゆく日日のやさしも