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   葦笛コレクション
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作品10 (句集「北国」より)                               2009.3.1
 
 病めば母も赤子の匂ひ天の川
                         山崎秋穂(南風   病いの床についている老いた母。もはや死はまぬがれない。母の介護にあけくれする
日常の中から、詠嘆とも祈りとも知れぬ感情がほとばしった一句である。病む母の匂いは ほんとうは 「赤子の匂ひ」 ではあるまい。しかし、作者はあえて乳の匂いのする赤子を比 喩とし、その切ない思いのうちに今生の縁を絶とうとする肉親を抱きとめる。こうした地上 の悲しみを荘厳するものとして、作者は「天の川」と出会っているのである。  感情の浄化ということ、その不思議と美しさを初めて教えられた感銘句であった。  かれこれ三十数年前に著者よりいただいた句集「北国」の中の一句。秋穂氏は、当時の 同人誌仲間であった山崎秀二郎氏の兄君であり、句誌「南風」の編集人をされていた。

作品11 (句集「北国」より)                                2009.3.8
 
 雪を踏む小暗きものを身に蔵し
  

                         山崎秋穂(南風
 
 秋穂氏の俳句をもう一句。雪の降り積もった道をひとり歩む。あたりは無音の世界であ り、ぎしぎしという雪を踏む音だけが続いている。このとき、作者の思考・感情といったもの は停止しており、ゆくりなく作者の意識は、「己れ」の内へと投げ返される。その内に息づ いているものを作者は「小暗きもの」として自覚したのである。いわば実存感覚なのだ。  この俳句に触れたのは、私がまだ三十歳前のときで、おそらくはここにおどろおどろした 情念、自己挑発的な意味を読み取ろうとしていたふしがある。しかし、いまはそれらを含め つつも、しづかな底ぶかい観照の境地としてうけとめている。

作品12                                            2009.3.15
 
 遠こがらし夢のつづきの紐垂れて
  

                               岡 建五
 
 だれかの・いつ・どこの事実を伝えるものとしてではなく、その具体に根ざしつつ普遍化 された「遠こがらしの世界」がここに在る。そこには、ただ夢のつづきの紐が垂れている…。 この冷え冷えとしたイメージには、心奥のなにかが剥き出しにされたまま時間がとどこおっ ているような戦慄がある。その遠こがらしのひびきわたる戦慄の時空は、夢から覚めたうつ つではなく、いま一つの次元なのかも知れない。  「魂は精神のように言葉を通じて語るのではなく、諸事物の形象を通じて語る」と言った のは、マックス・ピカートであるが、まさにこの一句のイメージは、若き魂のよるべない不安 を物語っているのだと思う。  岡建五は、学生時代に同じ下宿にいた二学年上の先輩であった。ゲーテやルソー、ボ ードレールを愛読していた彼が、突然、俳句三昧となったのはなぜだったのか。卒業後、 全国を放浪しながら俳句の道に精進し、一時期、俳壇で脚光を浴びたが、いつしか消息 が途絶えた。この作品はその当時のものである。

作品13                                            2009.3.22
 
 岡の上の蝶のさむさをまとふかな
  

                                岡 建五
 
 同時期の建五の一句。 岡の上に舞っている冬の蝶。 季節をたがえて生まれた蝶の運命 は、哀れを通りこして無惨であろう。 彼はその蝶の「さむさをまとふかな」と歌う。これはいわ ゆる感情移入というよりも、冬の蝶への凝視のきはまるところ、いつしか蝶は客観対象では なく己れ自身となる、その彼我のけじめのない一元の境地、 少なくともその一瞥において 成就した表現だと思いたい。特定の思念や感情への翻訳を拒んで自立した形象の世界、 そこでは言葉そのものが「予感者」となっているがごときである  それにしても、この句に充ちた寂寥のなかに、甘美なけはいが滲んでいるのはなぜか。も はや三十数年前の作品。 今の私には、ここにやはり青春の感傷、自己愛が見えてしまう。 とはいえ、それはこの作品の魅力を損なうものではない。 学生時代の彼は「美しいか美くし ないかだけが、僕の価値基準だ」 と常々、私に語っていた。  ちなみに、「夜寒かな身の裡を鷺ながれ出て」という作品もある。  なお、数年前に届いた大学の同窓会会報誌の物故者名簿の欄に彼の名があった

作品14                                           2009.3.29
 
 ほんとうに
  しぜんに詩のうまれる日は
  じぶんみづからがとほいものになったとおもふ
                                   八木重吉
 
 重吉の代表作といえば、次の二篇が挙げられる。 「果物」  秋になると/果物はなにもかも忘れてしまって/うっとりと実のってゆくらしい 「素朴な琴」 この明るさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美しさに耐えかねて         /琴はしずかに鳴りいだすだろう  たしかにここには、見えざる大いなるはからいのなかに溢れるいのちの光といったものが 孕まれており、敬虔なキリスト者としての重吉の魂にひびく「詩」が訪れている。  では、そのような「詩の受胎」はどうして生まれたのか。その創造の秘密を語っているのが この詩稿の断章だと思う。「ほんとうにしぜんに詩の生まれる日はじぶんみづからがとほいも のになったとおもふ」。「じぶんがとほいものになる」とは、自我、思考するマインドが失せて いることである。仏教なら無我の境地と言い、心理学者マズローならB認識と言うだろうが、 いずれにせよ、いわゆる「自分」がいないときにこそ詩が受胎されるというのは、逆説の真実 にちがいない。そのとき、詩の一瞥は宗教における覚醒に最も接近しているのだと思う。