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葦笛コレクション Vol.2   
折にふれて感銘をうけた詩歌をご紹介しています。

葦笛コレクションVol.3

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作品53                                       2010.1.9
 
薄ら氷のかぎろひにつつのぼりつつ  宙の皮膜をはがしゆくなり
                         谷井美惠子砂金
 「砂金」一月号詠草より。寒気のきわまった朝が明けてゆく空の大気の 具象が、こんな風に凄まじくとらえられるものなのかと、唸ってしまう。 地上に降りていた寒気の横溢を「薄ら氷」ととらえ、それが夜明けという 壮大な展開のなかで空に帰ってゆく様、空の明ける様を「宙の皮膜をはが す」と表現したのであろうか。作者は「具象と抽象(非具象)のあいだを 行き来しながら愚かしく問いつづける」と、常々語っているが、この作品 は、まさに具象でありつつ抽象、抽象でありつつ具象の世界なのだ。分析 したり類想する思念から表現されたのではなく、「感応の直接性」ともい うべき心魂の次元でたしかに見えた、まるごとの現実世界なのだと思う。  「宙の皮膜」がはがされた先の世界は、次の作品で歌われた「人の世の とほきあかつき」なのかも知れない。 ・人の世のとほきあかつき中空にあらはれたりぬ星たちの柚子

作品54                                      2010.2.1
 
生きて在ることはまことか こつぜんと   崖(きりぎし)となる夕茜空
                         谷井美惠子砂金)
 「砂金」十二月号の作品。田中良氏が二月号で見事な批評を寄せておら れるので、それを転載させていただく。  青々と晴れわたる秋の澄み透った様な大空。いま忽然と夕焼けの朱が天 壁にかけ登り、壮大な宇宙の一端を見せる。其処に立つ人間の微小さ。今 こうして生きている現実は果して本当なのか、どうか。人間なんてスクリ ーンに写し出された映像に過ぎないのではないか。時間も空間も本来は人 間が作り出したものではないのか。映像はフィルムが切れると消滅してし まう。その時が死。然し大本のフィルムは、そのまま残っている。作者は ただただ天地と一体化して眺めている。  自己が完全に空無化した時、逆に自己を活かしめているものの力を、ひ しひしと実感する。人間の高度な精神活動は、現実を超えた形而上的な世 界を見、構築する事にある。人は其処に於てこそ、此の生を諾う事が出来 るのかも知れない  若干、敷衍させていただくならば、釈迦の教えのように、色や形は人間 の視覚の及ぶかぎりにおいて視野に現れる存在の性質の一部にすぎず、見 えざる世界はいつもそこに在る。田中氏の言う「形而上的な世界」はこの ことを指している。谷井美惠子の詩魂はこの世界にふれているのだと思う。

作品55                                      2010.2.15
 
岬より出でよ一歩を この一歩、  父の波浪の底にねむらむ
                          谷井美惠子砂金)
 当初は、作者ならではの独特な「死への覚悟」が自己挑発のごとく打ち出 されたものとの印象を受けた。何度も拝読するうちに、その印象自体が増殖 していろいろな想いにかられた。「岬」とは、陸と海の境目であるだけでな く、此岸と彼岸、日常と非日常、見えている世界と見えざる世界、無明と光 明の境目、そして跳躍地点なのだろう。そこから一歩を踏み出せば、なにか が変容する。そのおののきと戸惑いにかられている意識の混沌が感じられて ならない。それは作者にとって、平穏な「母なる海」に安らぐことはなく、 「父なる波浪」に身を投じることなのだ。死は還ることであるとともに人生 最大の挑戦であると捉える作者の気迫にたじろくばかりだ。また、末期(ま つご)にこそ想起される「父」とはなになのかと感じ入る

作品56                                      2010.2.28
 
ことばことば放つ言葉の裂け目より  はな咲きひらく ありがたう
                         谷井美惠子砂金)
 私たちにとって「知る」ということは、知識という観念を手に入れること でもなく、言葉によって組立てた論理で納得することでもない。むしろ「気 づき」とも謂うべき一元的な体験そのものだと思う。この「知る」ことの最 も大きな障壁は実は言葉ではないのか。真実は言葉の向こうにあるからだ。 「詩」もまた同然である。にもかかわらず、歌びとは「言葉では捉えられな いもの」を言葉で表現しようとする。これは矛盾であり妄執というべきこと だ。作者はこうした葛藤を何度となく繰返したに違いない。「もの」に触れ て心奥に閃いた戦き、それが形になるべく原初の「ことば」が内からせりあ がる。それを記述したものとして白紙の上に「言葉」がしるされる。しかし、 歌びとが求める究極の表現対象は、この眼前の「言葉」ではない。歌びとは 自ずからわきあがる衝迫に身をまかせ、定型空間に言葉を捧げたにすぎない。 この時、ふとしも言葉の裂け目に恩寵のごとく見えてくるものがある。すな わち詩の花が咲くのである。この作品は、「言葉の裂け目」に出会うために 言葉に腐心するという歌づくりの逆説的な錬金術を証すものだと思う。言語 空間とは、言葉の向こう側への扉のことだ。