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葦笛コレクション Vol.2   
折にふれて感銘をうけた詩歌をご紹介しています。

葦笛コレクションVol.3

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作品57                                       2010.3.14
 
 ゆく日日はみな途上なり 菜の花の 黄の風もえてゐる一天地 
                       谷井美惠子砂金
 人間は、なにかに成ること、なにかを為すために生きていると当然の ごとく言われる。そこでは、今日は明日のためにあり、明日はその先の 日のためにある。つまり、私たちの生は、いわば水平軸の「途上」にす ぎないことになる。一方、この作品における「途上」は、以上のような 通念とは別のことを示している。水平軸でなく垂直軸に捉える「途上」 ではないか。それは為すことでなく在ることにひたすら関わり、作者の 常々のご発言を借りれば、「本当の己れに突き当たる」途上であり、そ して「天上への道」なのだと思う。菜の花はいのちの滾りではあるが、 それゆえにまた天上への離陸を阻害する魔物がひそんでいるのかも知れ ない。かくて作者は菜の花畑を過ぎる風に心すさむのだ。ちなみに、イ ンドのヒンズー教などでは、黄色は死を象徴する色である

作品58                                      2010.3.28
 
水面の高くなりゆき昼月へいのち ひかれてゆくときのあり
                        谷井美惠子砂金)
 にんげんの生と死には、月の満ち欠けが関与しているとのことを聞く。 あるいは、満月の夜などは、なぜかまがまがしい事件が惹き起されるとも 言う。しかしながら、この作品が示す密かな凶変は、彼女のみが新たに感 応した真実なのかも知れない。昼の月は、闇夜を照らすものではなく、夜 が明けても、空の一角に取り残されたものであり、どこか所在なく、茫洋 とした印象をもつ。彼女は、その昼の月と全面的に関わり、そこにさらに 深い真実を見るのである。全面的とは、思考や感情・感覚による意味の特 定をしないで、意識に働きかけられた初原の知覚に気づきをかたむけると いうことだ。このとき、彼女はただ気づくのである。人知れぬまま水面が 空に向けてせりあがること。そして「私」をこの地上にとどめている「い のち」そのものが、昼の月へ引かれていくことに…。なんというおののき であろうか。これは心象でも写生でもない。見えざる世界のリアリティな のだと思う。

作品59                                      2010.4.11
 
ひらかれてゐむ炎えてゐむはるかなる
深雪のなかの肉身の耳                         谷井美惠子砂金)
 一枚の幻想画を見るような思いがするが、彼女はこれによって特定の意 味を伝えているのではない。ただ、このような具象をもってしか表現でき ない、曖昧ながらも切実な意識、魂の嘆きを形にしただけなのであろう。 はるかなる幽明へだてた時空、彼女の魂の原風景たる深雪のなかに、いま もなお「肉身の耳」が「ひらかれて」「炎えて」ゐるという詩想にかられ たのである。その「耳」は、失われた時のおのが魂の象徴のごとくである。 この作品は戦慄にあふれた世界でありながら、なぜか沈黙が感じられてな らない。「魂は精神のように言葉を通じて語るのではなく、諸事物の形象 を通じて語る」と言ったのは、マックス・ピカートであるが、この作品は まさに魂の表現なのだと思う。魂は沈黙のなかでしか語らないのだ。  なお、「ひらかれてゐむ炎えてゐむ」という句またがりによる畳み掛け で加速し、「はるかなる」と調子を整え、「深雪のなかの肉親の耳」と 「の」を多用して一気に歌いおさめるリズムの妙に注目する。

作品60                                      2010.4.18
 
夜の部屋にはなればなれに耳ふたつひらきて ちがふ風をききゐつ
                         谷井美惠子砂金)
 彼女の作品にしばしば現れる具象のひとつとして「耳」がある。もちろ ん、にんげんの聴覚器官としての耳である。しかし、彼女が示す「耳」は 具象でありながら、にんげんの意識の働き、その本質をあらわにするよう なきわめて象徴的なけはいを放っている。耳は、音を聴きとる器官である が、その音を有意味の音として捉えなおすのは、耳ではなく意識であろう。 つまり、耳は世界と関わるひとつの扉なのだ。この扉をどこへ向けて開い ているかによって、聴きとる音は違ってくる。  万象の寝静まった夜の部屋にあって、彼女はただ己れを空しくして「耳 を澄まして」いる。そのとき、見える世界と見えざる世界、あるいは此岸 と彼岸の世界に意識が引き裂かれているような戦きに陥ったのではないか。 片方の耳はこちら側の風の音を聴き、もう片方の耳はあちら側の風の音を 聴いている。よるべなき孤独の心のきわみとして…。