にんげんの意識のいちばんあとよりぞ 流れて夕べの川しづまりぬ 谷井美惠子(砂金) この作品も、夕べの川に寄せて万象のみなもとたる静寂を捉えている。 夕べというのは、陽のもとに動いていた万象が夜の闇にしずまりゆくグレ ーのときである。鳥はねぐらに帰り、樹木は影に戻る。山々もその稜線を あいまいにして量感のみをあらわにする。夕べは一日の、ただ一回きりの 一日を完結させる「鎮め」のときなのである。川もまたその瀬音をつつま しくする。完結とは静寂に還ることである。そして、新しいいのちの力を 充填されるのだと思う。 しかし、人間だけが一日を完結することが遅れる。いや、完結できずに 過去をひきずり、未来へ埒なき輿望を持ち越すのではないか。なぜ、人間 はそうなのか。「にんげんの意識のいちばんあとよりぞ」という歌句は、 この痛みを表現したものであろう。
蒼穹は澄みしづまれるああ一期、 冬青草に膝つきにけり 谷井美惠子(砂金) 澄みわたった蒼穹は、人をして郷愁ともつかぬ遥かな思いに誘う。なん という清浄であろう。なんという静けさであろう。そしてなんという深さ であろう。その蒼穹のけはいのなかに大いなる眼差しをも感じる。その眼 差しに心魂をさらけだすとき、ただただ「いま・ここに」生きて在ること の不思議と恩寵を感じてやまないのである。 そこで谷井美惠子は、「ああ一期」と一回性のいのちの真実にうたれる のある。そして「冬青草に膝をつく」のである。冬青草は彼女の造語であ ろうが、冬麗の空の下に息づくいのちの象徴としての含蓄をもつ。その冬 青草に膝をつくという所作は、もはや立っておられぬ自らの戦きを示すと ともに、なにか自己を放下するような心魂のきわみをも感じさせる。ただ あられなくその戦きに身を投じるごときである。もう自己はない。そのと き、そのときにこそ彼女は天上に瞬として飛び立っているのだろう。