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葦笛コレクション Vol.2   
折にふれて感銘をうけた詩歌をご紹介しています。

葦笛コレクションVol.3

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作品69                                       2010.9.1
  にんげんの意識のいちばんあとよりぞ 流れて夕べの川しづまりぬ
                        谷井美惠子砂金

この作品も、夕べの川に寄せて万象のみなもとたる静寂を捉えている。 夕べというのは、陽のもとに動いていた万象が夜の闇にしずまりゆくグレ ーのときである。鳥はねぐらに帰り、樹木は影に戻る。山々もその稜線を あいまいにして量感のみをあらわにする。夕べは一日の、ただ一回きりの 一日を完結させる「鎮め」のときなのである。川もまたその瀬音をつつま しくする。完結とは静寂に還ることである。そして、新しいいのちの力を 充填されるのだと思う。  しかし、人間だけが一日を完結することが遅れる。いや、完結できずに 過去をひきずり、未来へ埒なき輿望を持ち越すのではないか。なぜ、人間 はそうなのか。「にんげんの意識のいちばんあとよりぞ」という歌句は、 この痛みを表現したものであろう。

作品70                                      2010.9.15
 
蒼穹は澄みしづまれるああ一期、 冬青草に膝つきにけり
                         谷井美惠子砂金)
 澄みわたった蒼穹は、人をして郷愁ともつかぬ遥かな思いに誘う。なん という清浄であろう。なんという静けさであろう。そしてなんという深さ であろう。その蒼穹のけはいのなかに大いなる眼差しをも感じる。その眼 差しに心魂をさらけだすとき、ただただ「いま・ここに」生きて在ること の不思議と恩寵を感じてやまないのである。  そこで谷井美惠子は、「ああ一期」と一回性のいのちの真実にうたれる のある。そして「冬青草に膝をつく」のである。冬青草は彼女の造語であ ろうが、冬麗の空の下に息づくいのちの象徴としての含蓄をもつ。その冬 青草に膝をつくという所作は、もはや立っておられぬ自らの戦きを示すと ともに、なにか自己を放下するような心魂のきわみをも感じさせる。ただ あられなくその戦きに身を投じるごときである。もう自己はない。そのと き、そのときにこそ彼女は天上に瞬として飛び立っているのだろう。