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葦笛コレクション Vol.2   
折にふれて感銘をうけた詩歌をご紹介しています。

葦笛コレクションVol.3

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作品78                                    
  母の両掌に汲まれし清水をさなごのわれは

顔つけて飲みしおもほゆ

                                                            渡辺於兎男(歌集「残雪」から

 「砂金」創刊者である渡辺於兎男の作品鑑賞をしばらく続けたい。昭和三十一年の第一歌集「残雪」から。
 過ぎし日の母親との睦みあいのひとこま
。幼子は母親に全幅の信頼を寄せており、その母親が両掌に汲んでくれた水は、まことに清らで甘露なのである。その水を「顔をつけて」いっしんに飲みほしたというのである。そうした宝物のような思い出に耽るこころは、過去への手放しの感傷というのではなく、幼子のごとく全面的に己れを開け放つことの平安、その甘美をいつか忘れ、鎧をつけている自分への苦い自省を翳らせている。


作品79                                   
 
 やすらかに寝息を立てて病む妻が

 見する
のよごれてゐたり

               渡辺於兎男(歌集「残雪」から

 病に臥しているかけがえのない愛妻に対するふかい眼差し。
おそらく頻繁に入浴でき
ない病状のゆえであろう。やすらか
に寝息を
立てている妻の蹠がよごれていることに気づいたの
である。その気づきは生身の妻、病魔
に侵されている妻の現
実に否応なく直面する
おののきである。蹠のよごれにあえて
言及し
たことで、病む妻への哀切きわまりない感情が作品に
刻印された。

作品80                                     
 
 うしろかげに妻病む杜がおもむろに

 移りて
ゆくをバスに見てゐつ

                 渡辺於兎男(歌集「残雪」から

 妻が療養しているサナトリウム、通いなれたそのサナトリウ
ムをつつむ杜を帰路のバス
の中から見たということなのだが、
このシー
ンそのものがなにごとかを語っている。うしろかげに
見える杜のなかに病む妻がいる。そ
こに妻の日常がある。その
妻と別れて帰って
いく自分にはまた別の日常がある。その離反
をかみしめているこころが感じられる。「お
もむろに」がそう
した想念の動きを示すがご
とくである。