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葦笛コレクション Vol.2
折にふれて感銘をうけた詩歌をご紹介しています。

葦笛コレクションVol.3

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作品92                                   
  わが影にわれのからだの重なれる刹那
うつつのわたくしが消ゆ

                                                                   坂巻富美代(砂金

 本体の肉体と自らの影を分離して捉え、それらが重なる刹那を見定めている。そこに何が示されているのか。私たちにとって、肉体は「私」の肉体、さらに 「私」と同一化して「私はお腹が空いた」という文脈が通用する。感情や思考の生起する心も同然である。しかし、霊魂を持ち出すつもりはないが「私」
とは、なにかのひとつの現れ・仮構にすぎないのかも知れない。この作品においてそうした「わたくしが消ゆ」と気づいている者はだれか。その者はどこにいる のか。古来、覚醒者たちが「空」としたそのみなもとは、言葉で表したり理解したりできない。この作品のように歌の向こうに「示される」だけだ。



作品93                                  
 忘れ来し野望のごとく
草いきれ強く立ちくる昼の真盛り


                       近松壮一(砂金

 壮年期を過ぎ、高齢者という括りに入ろうとしている「男」の
偽らざる感懐がここにある。加齢とともに無欲になったり温厚に
なる、あるいは歌にかぎれば、自ずから静かな円熟の境地に至る
などというのは、世間の条件付けに合わせたポーズのひとつだと
思う。作者の言う「忘れ来し野望」とは、内奥に手つかずのまま
にあるいのちの奔流を示している。「草いきれ強く立ちくる昼の
真盛り」は、そのまま作者の内面の風景なのだ。

作品94
                                    
 目の前をよぎりし蝶のもう遥か
花野のみちはただただ歩く 

                        田中 良(砂金

 蝶は忽然と目の前に現れる。その出会いの感興に耽るまもなく
ひらひらと飛び去ってゆく。上句はその実景を明快に描写した客
観表現ではあるが、もちろん同時にそこにひとときの啓示めいた
心ゆらぎの主観表現が伴う。その心ゆらぎの所以を自ら問い自ら
答えているのが、どこか涙ぐましさすら感じさせる下句「花野の
みちはただただ歩く」である。「花野のみち」とは「いま此処」
のみなもとに在るいのちの祝福の世界であり、また彼の世の世界
なのかも知れない。

作品95
                                    
 歳末にこのひととせを思ひみる
 そのおほかたは流れゆく雲  

                        大崎靖子(砂金)
 
 「行く年来る年」への感懐は、過去の出来事への感傷、未来へ
の漠とした予望として、心が動くことであろう。しかし、この作
品の世界は心が開かれたまま時間が滞っている。喪心なのだ。
「そのおほかたは流れゆく雲」と寓意化して受け容れたひととせ
に、ご主人を亡くされたということがある。