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   葦笛コレクション
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   Vol.1  
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作品15                                            2009.4.5
 
 洗う皿ふいに落としぬ思いすぎ掴みそこねし情感のごと
                           坂巻富美代(砂金
客観的な事実としては、手元が危うくなった高齢者としての日常の些細な事件 であろう。だが、歌びとのこころには、このことがなにか人生の本質的な欠落に 気付く契機となる。ふとしも洗い物の皿を落としたことは不慮の小さな失策であ るが、それがとりかえしのつかない過ちのごときものに符牒する…。「思いすぎ」 たゆえに「掴みそこねし情感」とはなにか。情感とはマインドではなく、ハート そしてもっと深い身のうちから起こる生の真実のレスポンスであろう。それは、 望んで達成するものでも、執着して蓄積するものでもない。また、意味付けるに は繊細で微妙なものである。つまり、思いすぎては捉えられないものなのだ。私 たちはなぜかそうした情感の中に全面的に在ることがない。にんげんの無明とは このことにほかならないと思う。

作品16                                             2009.4.12
 
落日にまむかひ歩む籠の中青き魚のいたく臭へる 
日の落ちるさままつぶさにみながらに人恋ふ心おさへがたかり
                            高木泰子(砂金
作者には「直覚」ともいうべき生理的な強い感受性がある。その濃密さのゆえ か、作品の多くは、思念などとの付合いを必要としない直截な表現となる。「直 覚」自体をぶつけて読者に迫るちからをもっているのである。掲出歌の一首目は、 鯖や鰯などの青ものを購い、落日を真正面に見ながら家路についているという、 梅雨どきの夕暮れの一場面を差し出しているだけである。しかし、この直叙の意 味の向こうには、けだるくまぶしい夕暮れの町のけはいが満ちており、生臭さす ら感じられてくる。そして、さらにまだなにかが濃密に感じられてくるのである。 作者の心に横溢し、それをもてあましている苛立ち。それは二首目に語られてい るものなのだろうか。落日を挑むがごとく見やる作者の気迫、それはそのまま「人 恋ふ心」をみずから開け放つ気迫なのだと思う。

作品17                                            2009.4.19
 
 途切れたる電話のあわい耳欠けし灰皿ひとつ宙に残さる
                              宮坂 薫(砂金
 私たちは身辺の事物を歌にとりこむ。その大方は、意を伝えるための状況説明の 素材であり、あるいは感情移入されたものである。ここでは事物は、思念・感情を 輪郭し増幅させるための従属的なものなのである。ところが、この作者の作品に在 る事物は、それ自身が自己主張し、作者の思念や感情に衝突しているがごときであ る。物が意識に挑戦してくるのである。意思疎通がほころび電話での会話が途切れ る。その気まずいひとときに脈絡もなく「耳欠けし灰皿」が作者の視野を占めるの である。灰皿のイメージは、気まずさの符牒として在るのではなく、意識の空白に 殺到する異物として在り、奇妙なめまいを誘っている。

作品18                                           2009.4.26
 
 工業団地はるかに望む広畑に昔と異なる風を聴きをり
                            小川 操(砂金
 社会詠とか時事詠と呼ばれる作品群があるが、私はそうした作品に感銘をうけ ることが殆どない。現代の歌びとは社会や政治に対して批評精神をもつべきとの 主張はもっともだが、社会時評などの論理本位の文脈における批評精神の表れと 短歌作品におけるそれとは違う。この違いに無頓着なまま、忌むべき社会の出来 事、その題材に依存して悲憤慨嘆してみせることが社会詠・時事詠の要件だとし たら、安直にすぎると思う。そこでは自分自身が問われることがない。批評精神 とは自らの眼、その視点を自らに問い正す主体性のことであり、想像力の起点と なるものだ。問われるべきは「眼の内側にある社会」だと思う。  しかるに、この作品には社会詠・時事詠の在るべき一つの姿があると思う。 生産性・効率重視の物質文明の行き着くところが、環境さらには人心の破壊であ ることは自明であるが、この作品にはそのことに対するあからさまな難詰の言辞 はない。ただ広畑の向こうに工業団地が見える風景の中に立ちつくして、「昔と 異なる風を聴きをり」と呟くのみである。作者は「文明批評」を意図していなか ったのかも知れない。しかし、この作品のもつ憮然とした表情、荒廃への漠とし た脅えのごとき気配はなぜなのか。「昔と異なる風」を察知する農に生きる作者 の眼がたしかに捉えたものなのだと思う。