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葦笛コレクション
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作品44                                      2009.11.1
 
咲きて散る花のいくたび愛も死も  見るべきは見つしずかに老いむ
                         田中 良砂金
 人生についての達観の境地が表明されている。「咲きて散る花のいくた び」という述懐は、数多くの季節のめぐりを示しつつ、人生の喜怒哀楽の 繰返しを象徴している。そして作者はこの推移に通底する本質として「愛 も死も」と、「愛」と「死」を提起する。「咲きて散る花」は「愛と死」 の表れに他ならず、こうした生の実相を「見るべきは見つ」と頓悟してい るのだ。これは単なる諦念でも空虚感でもない。さらに以下のような詩想 を誘発する。愛の訪れるところに自己はない。死にも自己はない。愛と死 はおそらく同じことを意味しているのではないか。「見るべきは見つ」と は、こうした虚ろなる生、それゆえに満たされる生、その空即是色を観照 する意識のバランスに在ることに他ならないと思う。「しずかに老いむ」 という表明にむしろ自然体の至福を感じとりたい。

作品45                                     2009.11.8
 
明暗の心のひだを折りたたみ遊離やさしも面あげてゆく
                        杉野伏美子砂金
 この作品にも達観のうちより立ち上がる強い生きる意思を感じてやまな い。悲喜こもごもに揺れる心、肯定と否定に振幅する心、そうした「明暗 の心」の動きをただ観照するとき心はしずまる。そのしずけさの中で作者 は「遊離やさしも」と、幽明へだてた大切な人との隔絶をうけいれるのだ。 「面あげてゆく」。ここには、生きて在る己れをうべない、励ます雄雄し いまでの意思がある。

作品46(歌集「向こう側」より)                          2009.11.15
 
坐るべき椅子は一つも見当たらず ただしんかんと陽を返しおり
                    光栄 堯夫桜狩・発行人
 どういう場所なのかは特定されていない。しかし、この定型の言葉の空 間にあっては、普遍化された「ただしんかんと陽を返し」ている場所とし て、濃密なリアリティをもっている。そこでは「坐るべき椅子は一つも見 当たらず」とのこと。この造型されたイメージは、不思議なおののきを孕 み、不穏なけはいを放っている。おそらく、この時空は、死へのいざない の場所なのだと思う。文字通り「向こう側」へつらなる待合室のような世 界なのだろう。  同様のおののきを歌った作品が同歌集に見られる。 ・空席の一つはあれど坐らずに過ぎてゆかんか今年の夏も ・またひとり呼ばれて行けり空っぽの椅子が晩夏の光を浴びて  秋でなく冬でなく、激しい夏の光の中に「向こう側」を察知するのは、 作者独自の詩魂のゆえであろう。

作品47(歌集「向こう側」より)                         2009.11.22
 
名前なき物と物なき名前に囲まれおれば陽炎燃えて
                    光栄 堯夫桜狩・発行人
 同じく光栄氏の作品。「向こう側」とは、生に対して死、此岸に対して 彼岸といったものだけではなく、形なきもの、見えざるもの、言葉を越え たもの、部分でなく全体、過去や未来でないものといった重層した意味を もつものだと思う。こうした「向こう側」を尋ねることは、よるべない空 虚に身を投げ出すことであろう。その営為は、観念や思念によって行き着 くことではなく、幻想を作り出すことでもない。「こちら側」にあってふ としも見えてしまったもの、その気づきに全面的にとどまることだと思う。  この作品は、その気づきの在り様を端的に示している。「こちら側」に 浸透してきた「向こう側」に気づくということは、「名前なき物」という 思考・言葉を越えた物(存在)の次元を垣間見つつ、また、同時に「物な き名前」という思考・言葉にすぎない事(観念)の迷妄をうけとめている ことだと思う。こうした覚醒のいまに陽炎が燃え立っているのだ。

作品48(歌集「向こう側」より)                         2009.11.29
 
はからずもはやに目覚めしこの朝  雪降りており…続きのごとく
                    光栄 堯夫桜狩・発行人
 光栄氏の作品をもう一首。睡眠は、いのちを宿す者にとって不可欠な自 然の営みである。では、睡眠の中で一体なにが営まれているのだろう。疲 れた肉体そして疲れたマインドを休ませるためという通念があり、それは その通りであるが、これは昼間に動き、考えていることを表の主とし、睡 眠を裏の従とする見方ではないか。しかし、見方を逆転すれば、私たちは 毎日、睡眠の世界からやって来ては、また睡眠の世界へ戻っているとも言 える。その睡眠の淵において、いのちのエネルギーをなにものかから充填 してもらっているのかも知れない。睡眠の世界もまた存在のみなもとたる 「向こう側」なのだと思う。  作者は、こうした睡眠の淵から水面に押し出されるようにして「はから ずも」早く目覚めたのであるが、気がつくとその朝の外界は雪が降ってい る。しかし、眠りの火照りから醒めやらぬ意識には、その雪を外界の雪と して認知するにはおぼつかなく、まるで睡眠の世界の「続きのごとく」感 じられるのである。向こう側とこちら側が交差する曖昧な時空でおののい ているのは誰か。