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   葦笛コレクション
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作品27 (歌集「樹下黄昏」より)                          2009.7.5
 
思へばわれにかかる時なし  繭ごもり近き桑子の透くうすみどり
                       田土成彦(地中海
  桑子は繭を吐くための変身をおのずから遂げる。そのいっしんさ・そ  の見事さはなにゆえか。その恩寵のごとく、美しいうすみどりに桑子は  光りかがやいている。その存在に根ざした「自己実現」の成就、自らの  可能性の全面的な顕現に作者は心うたれているのだと思う。   しかるに、私たち人間はどうか。「思へばわれにかかる時なし」。な  ぜそうなのか。桑子に限らず、あらゆる動物、そして花もまた自らを実  現しており、そこになんの不安もない。起こりうることは起こっている。  人間だけが宙ぶらりんのままではないのか。この未完成の人間の不安な  ありようをニーチェは「人間は橋だ」と言った。人間だけがこうした不  安にかられる唯一の生きものなのかも知れない。   その原因はどこにあるのか。作者はこの本質的な戸惑いに触れている。

作品28 (歌集「樹下黄昏」より)                        2009.7.12
 
まかげして遠き地平を望むため ヒトは直立の姿勢に立ちき
田土成彦(地中海
  田土氏の作品をもう一首。人間は四足の動物のたぐいでありながら、い  つか後肢で直立した。この原初の戸惑いを作者は次のように歌っている。  ・病む脚を庇ひて立てばかつてかく直立猿人が立ちし戸惑ひ   人間は立つことによって、大地に根を張る樹木、あるいは地を這う動物  たちと違う次元、人間としての新たな可能性に向かって生きはじめたのだ。  では、直立して在ることのほんとうの意味はなになのか。作者は「まかげ  して遠き地平を望むため」と歌うのみである。「遠き地平を望む」姿勢に  おいてこそ、桑子のごとく変身し、植物のごとく花ひらくのかも知れない。   こうした深い詩想を文脈の飛躍を抑制しながら淡々と表現されているこ  とに感銘をうける。ここに作者の禁欲的な表現姿勢・表現に対するモラル  を感じてやまない。

作品29                                        2009.7.19
 
花火果て帰る草野を従きくるは川音、 八月の死者のしのび音
                         坂巻富美代(砂金
  歳時記によっては花火は秋の季語とされている。本来は盂蘭盆の景物と  して花火があり、その時節は旧暦では秋だったのである。今日では納涼の  行事の意味が主となっているが、「天の夕顔」としての花火は死者たちと  の束の間の再会、そして訣別の背景となる象徴的な景物という情感は、い  まなお私達の心に引き継がれている。この作品は、勿論そうした情趣に根  ざしている。空の闇に繰り広げられる花火の饗宴、その華やかさ・賑々し  さは、死者と生き残った者双方の悲しみを浄化するものかも知れない。そ  の幽明を架ける散華をみとどけ、溶暗の草野を帰ろうとするとき、にわか  に耳につく川音がある。それは、生き残った者が立ち戻る日常、死者との  訣別を痛感せしめるものであろう。そして作者はその痛みの意識において、  追いすがるような「八月の死者のしのび音」を聞くのである。   「八月の死者」は亡くした親族の霊だけではなく、先の大戦の犠牲者を  も孕んでいるようだ。注目すべきは、かく捉えられた「川音」の象徴的な  リアリティである。

作品30 (歌集「ふりまわした花のやうに」より)                2009.7.26
 
仰向けが楽なものかとおもへないが 蝉ばかりかみんなさうして
                              平井 弘
日常の些細なことがらを独特な視点で捉え、軽妙な語り口で表現された不 穏な世界。路上にころがっている蝉の骸について、作者は「仰向けが楽なも のとはおもへないが」と、皮肉な視線を送り、ただちに「蝉ばかりかみんな さうして」と、生きものとりわけ私たち人間の死の姿にまで想像を広げる。 これによって、蝉の骸という平穏な客観がにわかに不穏なおののきに満ちて くるのである。  ニヒリズムの思念、ネガティブな捉え方によって照射された世界というよ りも、みもふたもない「ことのありてい」の目撃そのものであろう。その眼 差しには人間の悲喜を超えた含羞が翳っている。