CONTENTSHOME


葦笛コレクション Vol.3
折にふれて感銘をうけた詩歌をご紹介しています。


 File1File2File3 File4File5File6
  Vol.2

 Vol.1
 File7File8File9 File10File11File12


作品120                                                                                                2015.3
 
 昨夜の風こがらしなるや
 明日あしたと延ばしし事の重なり在るに

 
                              及川 秀子(砂金

 日常というものは、なにかとてつもなく大事なことから目を逸らし、
態度保留のままに目先の瑣事に埋没する身すぎなのかも知れない。まさ
に「明日あしたと延ばしし事の重なり」を引きずって「在る」のが人生
のありていなのかも知れない。このことへの根源的な自疑、その不安…。
時として「昨夜の風こがらしなるや」といった季節のめぐりへの気づき
がそれをもたらすのである。

作品121                                                   2015.3
 まなこ閉じ首垂れわれの耳二つ
 夜雨さびしき音に聞くなり 
 
                            倉本 薫子(砂金


 語られているのは、夜雨の音を一人さびしく聞いているということで
ある。しかし、この有無を言わさぬ孤独の気配、単なる感傷ではない、
いわば実存の域に及ぶ生々しい寂寥の気配はどこから来るのだろう。
「まなこ閉じ首垂れわれの耳二つ」と即物的に畳み掛けられた自画像、
そのみもふたもなく突き放したような語り口から来るのだろうか。この
思念や感傷を削ぎ落した簡潔な表現は、孤独の思いの深さと切実さに裏
付けられている。


作品122                                                  2015.3
 
椅子ふたつひっそり閑と庭隅に置かれてありぬ 
語るに足るや
 
                                                     畑中 千恵子(砂金


 穏便な韜晦の妙というべきか。四句までは「椅子ふたつ」が庭の隅に
置き去りにされたままという事態を描写したもので、そこには語られな
いなにかの意味が匂い立つごときだ。しかし、続く結句では、この想像
の動きを読者にも作者自らにも遮蔽するごとく「語るに足るや」とトー
ンダウンしてみせる。ところが定型の不思議なちからなのか、「語る足
るや」と否定されたことが、むしろその否定的な認知において痼りのよ
うな意識の翳りを語り始める。「詩の論理」というものがあるなら、こ
のような逆説もその一つである。