《谷井美惠子ノート》        10 11 12


ノートH

幽明を超える存在のかげ

 「影」という言葉は、多くは「物の影」、すなわち光の反対側に できる暗い像・影法師の意味で使われますが、元来は日や月・星の 光を第一義とし、その光であらわに見える物の形・姿、鏡や水面に 映って見える物の形・姿、眼前には見えないが想像されるおもかげ、 いつも物に付き添って離れないもの、死者の霊魂といった多様な意 味をもっています。  谷井美惠子の歌における「影」は、これらの意味を担いつつ、 「物の内面の真実」をたずねる独自のキーワードとなっています。 ・人びとの立ち去りたればひとつづつ影に戻りてゆきぬ冬木は                        (歌集・日常空間)  夕闇のとばりが降りる時、冬木の輪郭が失せ、文字通り影法師の ごとく見えるという描写としてうけとめることもできます。しかし、 この歌での「影」は「人びとの立ち去った」後に「戻り」あらわに なる元の姿とされています。本体の影ではなく、むしろ影自体がう すくらく発光する本体のごとくです。 ・いつぽんの樹木は影に戻りては立ちゐたりけり 蜩のひる                           (歌集・白雁)  真昼間にも「戻り」見える樹木の影…、彼女が指し示す「影」と は、なんなのでしょうか。いまを見えている樹木は仮の姿なのでし ょうか。蜩の鳴き声がくうかんに充満している夏の昼、それはかつ て芭蕉が「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」として参入した永遠の次 元と同じ「べつなじかん」です。この「べつなじかん」において露 呈する樹木の本来の姿(面目)を彼女は「影」と呼んでいるのでは ないでしょうか。 ・日のあたる枯草原をいち日ぢゆう巡りとべる影の鳥あり                          (歌集・日常空間)  これも平明な描写のようで、その実きわめて象徴的な普遍のイメ ージの歌となっています。それは「鳥の影あり」でなく、「影の鳥 あり」と捉えた彼女の眼差しのゆえです。目に見える鳥の姿ではな く、目に見えない「影の鳥」、それはまるで死者の霊魂のごとくで す。その鳥の羽搏く音が作品のうちに幻聴としてひらめいています。 ・ほのくらき身となりてゆく桐の木にとまれる鳥をかぞへつつゐて                      (歌集・日常空間)  桐の木は新古今時代からそぞろ寂しい秋意を探る対象ですが、こ こでは秋の感傷どころか、いわば存在自体のおぼつかなさがたずね られています。おそらく彼女が見た鳥は「影の鳥」でしょう。その 鳥を数えることは、自己挑発めいた放心の所作のごとくです。その 中で、彼女は永遠のうちなる自らの影に否応なく気づいていったの だと思います。 ・蝉のむくろひろひてをれるわが影のしばしば水の底ひにありぬ                         (歌集・白雁)  では、自らの影とはどのような感覚において捉えられるものなの か、これを示すのがこの歌です。「蝉のむくろをひろふ」所作は、 一種の無為であり、しかも死といういのちの裏側の消息をたずねる ことです。こうした儀式が進行する「べつなじかん」の中で、彼女 は自らの内なる存在の気配を、無音の水底にゆらめく投影物のごと く感じたのです。 ・かりがねのさいごの一羽消えてのちわが身しづかに影となりゆく                        (歌集・白雁)  この挽歌において見送られた雁がねは、いのちのみなもとへ還り ゆく霊魂の象徴でしょうが、見送った彼女もまた「しづかに影とな りゆく」。逝く人もとどまる人もすでにして死をも孕む同じみなも とに在る…。彼女にとって「影」は、幽明を超えた存在につらなる 此岸の本来の姿なのかも知れません。

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