《谷井美惠子ノート》        10 11 12



ノートC

「べつなじかん」に関与する眼差し


 これまで「推移して行く事でなく、存在としてそのまま不変であ る物の内面の真実を探る」という、谷井美惠子の歌づくりの基本ス タンスに何度か言及してきました。 今回は、谷井作品にしばしば見られる「じかん」「刻」などの言 葉、その独自の意味合いを感じながら、彼女のこのマニフェストを 再度、私なりに敷延してみたいと思います。 通常、私たちは時間というものは過去から現在・未来へと水平に 流れていくものと考えています。人生を川の流れに譬えるのは、こ のゆえです。しかし、彼女の時間は違う。 ・風やみしみちのほとりの刻あはくおちば一葉たちあがりたる           (歌集『日常空間』)  ここに捉えられている「刻」は、流れていく時間のひとときとい うより、いまに滞り、しずもる空間のごときです。その「あはき」 刻において「おちば一葉」が「たちあがる」と彼女は伝える。その 消息は、いわば「見えざるいのちのみじろぎ」かも知れません。 ・切株の渦のかすかにゆれながら日のなかをじかんとほりすぎゆく                       (歌集『白雁』)  たしかに「じかんとほりすぎゆく」と語っていますが、そのあて どは過去から現在・未来へではなく、別次元のようです。次の作品 はこの「じかん」がなにかを示しています。 ・灯の下に置かれありたる柚子をめぐりべつなじかんのながれてを  りぬ                    (歌集『白雁』)  そこに柚子が在る。彼女はその「存在のたたずまい」を思考を介 さずに受けとめようとする。そのきわみに触れたのが、柚子を在ら しめる内在律のごとき「ベつなじかん」、すなわち「永遠」なのだ と思います。「永遠」とは、水平に伸びる永い時間のことではなく て、現在を垂直にひらく「べつなじかん」のことだと考えます。つ まり、現在とは時間と永遠がつかのま出会う交差点であり、永遠と は「いま・ここに遍在するいのちの時空」とも言い換えられないで しょうか。  おそらく、事は時間に属し、物は永遠に属する。「過ぎて行く事 ではなく、存在としてそのまま不変である物の内面の真実を探る」 ということは、「いま・ここ」において、対象と愚かしく(無心・ 無思考のまま)、全面的に関わろうとすることです。このとき時間 は失せ、「永遠」の次元がひらかれる。 ・ひそかなるおとに地上の夏つばき掃きつつすでに今日はるかなり           (歌集『白雁』)  「ひそかなるおと」に気づきをもちながらとは、夏つばきを掃く 所作に全面的に没入しているということです。つまり無心のままに 在る…。かくして一種の瞑想の深みに至り、彼女は永遠の次元にひ きこまれるのです。  谷井美惠子作品の多くが異形の彼岸の世界として見える、その一 因は、彼女の眼差しがこの「べつなじかん=永遠」に関与するゆえ だと思います。 ・しろじろとしづまる夏の時の間をひとはひとはみな立葵なり                     (歌集『日常空間』)  下句の断言は、比喩を操る思考による表現ではありません。彼女 はただ、「愚かしくたずねる」なかで、この断言に自ずから出会っ ただけでしょう。「しろじろとしづまる夏の時の間」とは、見えざ る永遠の扉がひらく間(魔)であり、そこで彼女は「ひとはひとは みな立葵」という気づきに心魂をつらぬかれたのです。ちなみに、 「ひっそりと犬捕りがゆく立葵」「立葵よぎる尾長の黒帽子」とい った、滞る「いけない時間」を孕む俳句があります。立葵は「べつ なじかん」に咲く花なのかも知れません。ひともまた…。

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