《谷井美惠子ノート》    3     10 11 12

ノートB

愚かしくたずねてこそ開示される世界

 谷井美惠子の世界は、事でなく「物の内面の真実」に対する「痛 み・怖れ・ためらい・はじらい・おののき」に満ちている。

このこ とに関し、彼女は自ら次のように語っています。 「目に見えないものにひそむ真実のすがたを、具象と非具象をゆき

来して、それぞれの風景の節くれにぶつかりながら、いよいよ愚か しく、たずねて行くしかありません」。(歌集『白雁』あと

がき)  彼女が折にふれ、歌づくりに関わる姿勢について「愚かしく」と か「愚直なまでに」といった言い方をされることを私

たちは知って います。これは彼女の謙譲なお気持ちのゆえだけでなく、むしろ彼 女の不屈の志を毅然たらしむる言い方

なのだと思います。彼女の歌 は「愚かしくたずねる」ことによってこそ開示されうる世界なのか も知れません。このことを谷

井美恵子作品の一つのキーワードであ る「火・炎・燃える」が表現された歌を引用しながら、確かめてみ たいと思います。

・枯菊の燃えあがりたる火の裏に黒ぐろふかきみちありにけり (歌集『日常空間』)

 仮初の花の盛りを全うした後、枯菊が燃えている。その燃える火 (現象=事)の背後に彼女はいのちの還りゆく「黒々ふ

かきみち」 (物の内面の真実)を感知する…。これを幻想とか幻視の表現とし て意味付けするのは、理知の立場です。つま

り、日常の目に見える 姿と通常の言語表現の通用度合(言語規範)は、暗黙の依存関係を もっており、こうした表現に会う

と、私たちはそれに幻想といった 納得の仕方を「しぶしぶ」してしまいがちです。なぜ、ただ存在と の直面そのものの表現と

して受けとめようとしないのでしょうか。

・かへりゆくところにあらむ夏よもぎの根方に仄か火の匂ひする (歌集『白雁』) 夏よもぎの根方に微かな火の匂ひを嗅ぐの

は、「かへりゆくとこ ろ」をたずねるよるべない心魂のゆえです。これも思念の映像化、 あるいは翻訳可能な心象表現として

理解すべきではありません。斯 く表現すること自体が「愚かしくたずねる」行為であり、これによ って開示されるのが「目に

えないものにひそむ真実のすがた」で はないでしょうか。  通常、「伝達」を目的とした表現は、既知の概念を紡ぐことによ

り判断・解釈された意味を持ちます。つまり、その表現は「理知の 次元」にあります。もとより「詩」は、概念化された言葉で

は言い 表せないリアリティにまつわるなにかです。そこで、私たち歌びと は、理知の次元をいかに離陸するかに腐心する

わけですが、彼女は この難関を「愚かしくたずねる」ことで正面突破しようとする…。 それは自らの理知を捨て、見えざる

リアリティと直面しようとする ことです。自らの理知を捨てるとは、慣習となった物の見方、それ に見合う言語表現による判

断・意味付けの次元に身を置かないとい うことであり、言い換えれば、無思考の姿勢で対象と関わることだ と思います。か

くてその感応の世界は、彼女独自の「詩の言語」に おいて「指し示される」だけなのだと思います。

・燃えてゐる ゆけどもゆけども一本の樹の燃えてゐる 宇宙 (歌集『白雁』)

   ここには理知の次元の意趣はありません。ただ、このような言葉 ・文体をもってしか指し示すことができない、万象をつら

ぬくいの ち、その永遠の相が形象化されているのではないでしょうか。

・野火の炎を身の内すきとほるほど見つめをり 火へたふれゆく (砂金・十四年五月)

  野火の炎は万象のいのちの滾りであり、それを「身の内すきとほ るほど見つめる」ことは、認識主体である自己に依拠して

なにし かの意趣をあざとく主張することではなく、むしろその自己を野火 の炎(存在)へ投げ出すことに他ならない。「火へた

ふれゆく」の は彼女の実存というべきものでしょう。  ちなみに、彼女は砂金誌上の作品評のなかで、次のように語った こと

があります。「歌びとは頭などよくない方がいいのである」。

   蛇足ながら、これは歌びとにとって、思考の介在は「詩」との 直面を阻害するという彼女の考え方なのです。


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