《谷井美惠子ノート》        10 11 12


ノートI

思いをひそめる

 谷井美惠子は、歌づくりの姿勢として「思いをひそめる」ことが 最も大切であると、折にふれて語っています。「思いをひそめる」 とは、「思いをとりしづめる」ことです。言葉のもつ意味や観念に 安直に依存した声高な表現を戒めるだけではなく、表現以前にその 「思い」をもっとみきわめるべきという自制の心得として理解でき そうです。しかし、彼女が「思いをひそめた」作品は、この通念を さらに超えた世界を現出させています。 ・人もまた花なり炎ゆる落日に貌すさまじく荒れてゆくなり                         (歌集・日常空間)  芭蕉の俳句に「あかあかと日は難面も秋の風」があります。私は ここに自意識の火照りを感じますが、どこか落日に対して思弁的な ニュアンスが気になります。一方、この歌は「炎ゆる落日」とまる ごと相対しており、そのなかで想起された「思い」をひそめていま す。難面(つれない)と表現する次元のさらに深い次元で捉えられ たリアリティ…。このいのちの火照りは狂おしいばかりです。 ・大空ごとうごく白雲 その下にいちまいの身のゆらめき立てる                        (歌集・白雁)  空と雲の存り様を「大空ごとうごく白雲」と、不合理・非思量の 混沌のごとくうけとめることから、彼女の「思いをひそめる」こと が始まります。この混沌においてこそ、「いちまいの身」という真 実の自己が「ゆらめき立つ」ことに彼女は気づきゆくのです。「思 い」は内に在るのではなく、外から来る。外からのメッセージをど れだけ全面かつ深くうけとめるか、それを動機とした「思い」をい かにひそめ、心奥からの「個の表現」に結びつけられるか…、彼女 の創意はここにあると考えます。 ・なかぞらにゆふぐれの靄ただよへる 人あかりとわれはよぶなり                        (歌集・白雁)  上の句「なかぞらにゆふぐれの靄ただよへる」は、外からのメッ セージであり、下の句「人あかりとわれはよぶなり」はそれに応え た心奥の「個の表現」とみなせます。私たちは、「人あかりとわれ はよぶなり」と発語した彼女の思いの深みへ参入すべきです。その とき、人里の情趣などではなく、人間の悲喜こもごもをうべなう根 源的な懐慕の抽象として「人あかり」が感じられないでしょうか。 ・花ひひらぎ そこに在らむとするならば羞しく混沌と揺れてゐよ                      (歌集・日常空間)  柊の花が咲いている。彼女はその花を美しいとか愛らしいなどと 言わない。「思い」は見えざる計らいのなかで花ひらく不可思議へ ひそむ。かくて「羞しく混沌とゆれてゐる」ことが「悉有仏性」の 祝祭のごとく想起されたのだと思います。もちろん、柊への語りか けは、己れ自身への語りかけでもあります。 ・身に見ゆるもののさいごの景ならむ ひかりにけぶるひまはり一                       (歌集・白雁)  盛んないのちの発露を象徴するごとき向日葵をうけとめる彼女の 心は、おそらく思惟や感情を「とりしづめた」虚ろな器となってい る。それゆえに向日葵は「身に見ゆるもののさいごの景」となるほ どの鮮烈かつ強烈ないのちの具象となって心を占めるのでしょう。 ・秋茄子の瑠璃のひかりを身にまとひ路傍のたれもたれも罪もつ                         (歌集・白雁)  秋茄子の紫紺を「瑠璃のひかり」としてうけとめたとき、彼女の 心奥に瑠璃光如来(薬師如来)のイメージが現れたのかも知れませ ん。少なくとも、煩悩具足の人間に対する傷みが閃く契機となった と考えられます。  「思いをひそめる」ことは、あれかこれかの判断といった思考の 次元よりさらに奥の内面に意識を沈潜させることです。その果てに 「個の心」、本来の面目たる自己に出会う…。そして、その自己が 外からのメッセージに対して響き合うのだと思います。これが本当 の「自己表現」だと考えます。自我の表明ではありません。この意 味では、「思いをひそめる」ことは、万象に心を開け放つことかも 知れません。

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