《谷井美惠子ノート》        10 11 12


ノートK

天上へのいつぽんの道

 最終回にあたり、私なりの論点を要約しながら、谷井美惠子の 「歌の思いのあてど」を尋ねたいと思います。引用歌は「道」にま つわる作品です。  彼女は、自ら歌は「推移して行く事ではなく、不変である物の内 面の真実」「目に見えないものにひそむ真実」を「愚かしくたずね る」ことであると言明しています。 ・道に立つわれの心のくだけては水ひくさまにゆく時間のあり                    (歌集・水をのむ山羊)  「事」とは見える現象の世界であり、それは「なにがなにしてな んとやら」と言葉・概念を紡いで捉えられる(と思い定めている) 世界です。一方、「物」とは「事」を統べる本質であり、論理的思 考の及ばないトータリティ、いわゆる覚醒と呼ぶべき「べつな目」 に開示される次元のものとみなせます。この意味で、「われの心の くだける」のはまさに「物」の次元の出来事です。決して特定の心 理・観念の比喩ではありません。見えざるいのちと響き合うのは心 (自我)ではない。彼女は「道」に立ちながらこのことに戦くので す。そのとき「水ひくさまに」「時間」が消失し、「永遠」(べつ なじかん)が現れる…。では、その「道」とはなんなのでしょうか。 ・一本道あゆみ行きつつふり向けば惣ち影にかへる木のあり                      (歌集・日常空間)  彼女にとって、木は永遠の次元に立ついのちの象徴であり、時と して「影」という本来の姿に還りゆく…。その見えざる真実に「一 本道」において出会ったのです。ここで注目すべきは、その「一本 道」が「生活の具体」でありつつ、剥き出しでためらいに満ちた普 遍的なニュアンスをもっていることです。 ・どこからも誰からも見え深閑と日の差してゐる一本の道                      (歌集・日常空間)  それを端的に物語っているのがこの作品です。この超現実のあら れなさはなんなのでしょう。本当は「どこからも誰からも」見えな い一本の道が、彼女の目にのみ見えているのです。次の作品も同じ 戦きがあります。 ・地下道の出口をいでてひと時をけむりのやうなしろきみちあり                     (歌集・日常空間)  彼女にとって「白」は、幽明を超えたあからさまな存在の色なの です。いったい、その「しろいみち」はどんな意味を担い、どこへ つながる道なのでしょう。その道を歩むということは、どういうこ となのでしょうか。 ・幾たびも迷ひさまよふ日の道のうつつにとほくわが影ありぬ                       (歌集・白雁) ・天上へのぼれるさまにあゆみゆく誰もゐない蝉時雨坂                       (歌集・白雁)  幾たびも迷いさまよう道、独りの道、しかし、その歩みは「天上 へのぼりゆく」ごときものです。「天上」とは彼女が「愚かしくた ずねてやまない」物の内面の真実、そのみなもとでしょう。なれば 「道」とは、文字通り彼女の「歌道」なのだと言えます。言い換え れば、見えざるいのちの世界、あざとい人間の理知を超えて遍在す る超越的な計らいの世界をたずねるひたむきな志だと思います。  しかし、それはいわゆる哲学や宗教の観念に依拠した思念を叙述 することではない。ただ愚かしくたずねる表現が即体験となる、ま さに歌う行為です。ちなみに、西行は「和歌即陀羅尼」として、和 歌そのものが真言(存在の意味)を顕現するものと考えていました。 谷井美惠子は、近代以降の短歌の系譜ではなく、西行につらなる求 道の歌びとなのです。 ・道のほとりにかがめるわれは天上へ吹きのぼりゆくひとひらの風                        (歌集・白雁)

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