《谷井美惠子ノート》  1 2     10 11 12



ノートA

美は怖るべきもののはじめに他ならぬ(リルケ)


 十数年前、谷井美惠子は私の拙い歌集にご感想を寄せられたお手紙の中 で、「あなたの作品にちゃんとある」として、リルケが詩の基本要素に、 〔痛み・怖れ・ためらい・はじらい・おののき〕の五つを揚げていること を教えてくださいました。  時を経て、私なりに彼女の作品について語ろうとするいま、このリルケ の指標は、むしろ当の谷井美恵子作品の本質を証すものであったことに気 づきます。そして、彼女の作品にこれらの要素が激越かつ濃厚に溢れてい ることに…。  ノート@で、彼女が詩情主義の具現のために「事でなく物の内面の真実 を探る」ことを不屈の志としていることを確認しましたが、「痛み・怖れ ・ためらい・はじらい・おののき」を覚えているのは、まさに「物の内面 の真実」に対してです。言い換えれば「そこに平凡に在りながら、いつ何 がおこるかわからない、おそろしい日常のなかにひそみ、眼に見えないと ころで生きているもののいのち」なのです(歌集『日常空間』あとがき)。  彼女の作品に孕まれた「詩」は、この五つのうち、とりわけ「怖れ」と 「おののき」に満ちています。端的に「怖れ」を表白した作品をあえて引 用してみます。 ・花園に紛れゆくことおそろしく遠く遠くはなれてあるく                         (歌集『日常空間』) 彼女は花園の内部に磁力のようなものを感じる。そこに紛れゆくことは 認識主体としての自己の消滅につながるごときです。とはいえ、「遠く遠 くはなれて」も、その磁力の圏外に出ることはできないのかも知れません。 ・生きてゐることおそろしい 暗がりの蜜柑あかりに身のてらされて                           (歌集『白雁』)  「蜜柑あかり」とは、彼女の造語でしょうが、暗がりの中、蜜柑の「い のちの発光」を感じ取る…。この静謐にして緊迫した時空のなかで、彼女 は己れがいま生きて在ることの不可思議と向き合っているのです。 ・茫然とあゆみきたりて六月の木と木のあひだげに恐ろしき               (歌集『白雁』)  まるで不可逆の世界へ自己を突き放しゆくようなあられなさはなぜか。 それにしても「六月の木と木のあひだ」からなにが横溢してくるのか。お そらく、この理解は、「六月」という言葉に対する彼女の語意識にどこま で同調・共鳴できるかにかかっていると思います。若葉の五月でなく、輝 きの七月でなく、ただ貪婪に繁りゆく多湿な六月…。そのいのちの繁茂、 その遍在を「木と木のあひだ(見えざる隙間)」に感受し、戦くばかりなの です。 ・落葉の火消えたりしのちきよらかになりてゆける宙おそろしき                         (砂金十五年一月号)  これは、いのちの繁茂でなく、落葉が焼きつくされた仮初のいのちの不 在、それを包みこむ清浄な宙への畏怖なのだと思います。 これらが歌びと谷井美恵子の「怖れ」であり、一般に言う「美」を突き 抜けた「詩情」です。しかるに、リルケに次の詩句がある。  「美は怖るべきもののはじめに他ならぬ」。  この真相は彼女こそが知るところでしょう。

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