《谷井美惠子ノート》        10 11 12



ノートD

内なる虚ろ=自己にゆきあふ歌びと

 「自己表現」という通念がある。これは表現すべき既知の内容が 自己の内にあり、さらにその自己そのものが確たるものであること を自明の前提としています。私たちの歌も、この通念に基づいて作 者の思考とか感情の意味が求められ、その雄弁性が価値判断されが です。私たちが見聞きする歌の大半は、この「自己表現」の延長 線上にあります。「このどこがいけないのか」といった反論も当然 あると思います。しかし、いまはこの議論は避けます。ただ、谷井 美惠子の「推移して行く事でなく、存在としてそのまま不変である 物の内面の真実を探る」というマニフェストに関して言えば、今も 昔も多くの歌は、「推移して行く事」にまつわる「自己表現」であ ることはまちがいありません。  一方、谷井美惠子の歌はこうした「自己表現」として受けとめる ことはできません。なぜなら、彼女にとっては「自己」もまた「愚 かしくたずねる」対象であり、むしろ歌を介してこそ輪郭されるが ごとき彼女の「自己」は、これまた私たちの通念を越えているから です。 ・窓そとに立てる樹木とやうやくに同じ呼吸となりて暮れゆく                     (歌集『日常空間』) 肉体がいのちの宿る乗り物だとしても、よくよく想えば、空や海 ・森・太陽など肉体を在らしむるものを含めると、その境界は広が る一方です。どこまでが肉体なのか…。肉体がそうであるなら、ま してや「自己」とは、無限大な存在との精妙なバランスのうちに在 る奇蹟のようです。「窓そとに立てる樹木」は、この奇蹟の兄弟、 さらに言えば自己自身なのかも知れません。一日の終わりの安息と して、彼女は自己のまことに帰り着いているのだと思います。 ・草むらに鳴くこほろぎのこゑをきき行きて己につきあたりける                        (歌集『白雁』) 秋天のもと、ひたすら響きわたる蟋蟀の鳴き声。それを「きき」 「行きて」とは、蟋蟀の声のみに心魂を投げ出すことであり、やが てその虫の音は身のうちそとに溢れるばかりとなる…。彼女におけ る「自己」とは、いわば身のうちとそとが一つとなる危うい均衡点 で初めて「つきあたる」もののようです。 ・日の中に咲く花ばなにちかづけるわが手こくこく老いてゆくなり                     (歌集『日常空間』) ノートCで、現在とは「時間と永遠の交差点」ではないかという ことを述べましたが、この歌はその現在に立ちどまりながら、「わ が手こくこく老いてゆく」見えざる普遍のすがたを示しています。 次の歌も同じように普遍のすがたです。 ・日の下をあゆみてをりぬ生きてゐる己に向きて歩みゐるなり                         (歌集『白雁』)  しかし、彼女の眼差しの方向が違います。同じ現在に立ちどまつ りつつも、先の作品は「時間軸」にかかわる死をたずねており、こ れは「永遠軸」にかかわる生をたずねるがごとくです。「生きてゐ る己」とは、この永遠軸に沿って辿り着くべき何者かなのです。以 下の歌は、このことを明確に示しています。 ・輪をひろげひろげ飛ぶ鳶 大空のそとにおのれとゆきあふならむ                       (歌集『白雁』)  弧を描いて飛ぶ鳶。しかし、「ゆきあふ」べき「おのれ」は、こ の飛翔の場である大空のなかではなく「大空のそと」に在ると彼女 は歌う。「大空のそと」とは、永遠(いま・ここに遍在するいのち の時空)に他なりません。鳶は歌びと、「時のうち」なる有為の生 を生きつつ、詩魂は「時のそと」のまことにつながる「おのれ」を たずねるばかりです。  歌びと谷井美恵子における「自己」とは、思考・感情の主体=自 我ではなく、「事」の当事者でも、肉体でもない。それは永遠に属 する「物の内面の真実」をたずね、感応したそのまことに戦く者、 そのとき初めて充たされる器のごときもの…、老子に言う「虚ろな 器」なのだと思います。もちろん、この「虚ろ」とは、むしろ充た されいく可能性=創造力と同義だと考えます。

美惠子MENUCONTENTSHOME