《谷井美惠子ノート》  1      10 11 12


ノート@

プロローグに代えて

 谷井美惠子が砂金の謳う「詩情主義」を率先垂範していることは、だれ もが異論のないところです。しかし、彼女の作品に孕まれた「詩情」は、 私たちが通念の範囲で受けとめている詩情とあまりにも隔絶しています。 とはいえ、そこには、だれもが戸惑いを覚えつつも、目眩するがごとき衝 迫力を感じざるをえないリアリティが内在しています。  本年(二○○三年)の砂金発表歌より。 ・宙うごくにんげんうごく天上の映る泉の根にかへるべく  (一月号) ・水面の高くなりゆき昼月へいのちひかれてゆくときのあり (二月号) ・ひらかれてゐむ炎えてゐむはるかなる深雪のなかの肉身の耳(三月号) ・たたみの上におのづとひかる一枚の白き紙のそらおそろしき(四月号) ・春霞ごしに人影ゆれうごくじかんもなにもなきところにて (五月号)  これらの作品には、私たちが馴染んでいる写生歌のような自然の形象は なく、むしろ見えざるものの形象化が図られています。そして、これと関 連し、いわゆる思念や感懐を忖度しうる「意味」の次元を離れ、ただ切実 な戦きだけが張りつめているごときです。  彼女の歌の衝動はなんなのか。しかも、それは「自己」を鎧うためでは なくて、その自己を無防備に投げ出すがごときであるのはなぜか。先走っ た物言いをご容赦いただくならば、私は「根源的なものへのひたすらなる 問いかけ」だと思います。そうしたあられなく問いかける意識に響くもの ・閃くものが、谷井美惠子作品の詩情なのかも知れません。 ちなみに、谷井美惠子は一九九六年の「短歌現代」に寄せた『結社の主 張と歌』の中で、次のように砂金の「詩情主義」を敷延しています。 〈短歌の文学性を高めるのには、推移して行く事でなく、存在としてその まま不変である物の内面の真実を探るほかはなく、短歌の古来よりの香り 高い芸術性を保ち続ける詩精神を失わず、愚直なまでに生活の具体からそ の物の本質を探り求め、精神のリアリズムを湛えた詩情主義が、『砂金』 の道標なのである〉  事でなく物の内面の真実を探る。これが歌びと谷井美恵子の不屈の志で しょう。では、事とはなにか。それは「なにがなにしてなんとやら」とい う事象の推移であり、それは理知によって脈絡づけられる意味の世界だと 思います。しかし、彼女は事にかかずらうことは「みなもと」に至ること ではないと断定する。事でなく物。物とは、人間のあざとい理知と関わり なく不変にしてトータルに在り続けている存在の全てだと思います。そう した存在と直面するとき、その言語表現は変容を遂げざるをえない。これ が谷井美惠子独特の「文体」となる。しかし、その文体は「生活の具体」 に根ざさない観念語や比喩を弄する修辞ではなく、ただただ愚直なまでの 存在との交感の証しであり、さらに言えば、交感そのものなのだと思いま す。 ・愚直なるわが人生の底ひにてくらぐら炎える泉あり  (一月号)

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