《谷井美惠子ノート》        10 11 12


ノートE

「立ちゐる樹木」にたずねるまこと

 彼女の作品にしばしば「樹木・木」が現れます。しかし、それら はいわゆる写生・叙景の対象ではなく、寄物陳思の題材でもありま せん。ひたすら「たずねる」ものです。 ・葉のすべて落ちあきらかに知りたりし木は一本づつ立ちてゐるこ  と                    (歌集・日常空間) 落葉のきわまった裸木の姿に改めて「木は一本づつ立ちてゐるこ と」をあきらかに知ったという。裸木は、花の季といった「時の推 移」と隔絶した無残なまでの木本来の姿のごとくです。この姿があ らわに示していることは、文字通り「一本づつ」という孤独の様、 そしてなによりも「立ちてゐる」という自律の様です。彼女はこの 紛れなき有様に思いをひそめて戦く。その戦きの目に映る木は、お そらく「べつなじかん」に在る木です。  何度も触れたように、彼女は「推移して行く事でなく、存在とし てそのまま不変である物の内面の真実を探る」。ゆえに、眼前の木 もまた、移ろう現象(事)としてではなく、不変のまことを孕む存 在(物)として捉えているのだと思います。 ・一本づつ木は木のまはりの目に見えぬものに囲まれ立ちてゐるな  らむ                    (歌集・白雁)  木が立っている。その盤石のたたづまいに対して、彼女は「目に 見えぬものに囲まれてゐる」のではと、なにか「見えざる計らい」 を察知する。木はその「見えざる計らい」に応えつづけている存在 なのかも知れません。 「木が立ちてゐる」ということは、彼女にとって「永遠の次元」に 立ついのちの姿を象徴するものなのだと思います。 ・どのやうに変りきたるやどのやうに変らざりしや知りたしよ 木                       (歌集・白雁) ・またしても木は始めなく終りなく立ちてゐるものと思ひてをりぬ                        (歌集・白雁) かくして彼女は、木がただ「立ちてゐること」、その不変性・そ の不可思議を「愚かしくたずねる」ばかりです。同じならずして同 じなるもの…、始めなく終りなきもの…。まるで「いのちそのも の」を問うごときです。 ・本流はただにしづかにうすくらき樹木のなかをながるるならめ           (歌集・白雁) もとより樹木のいのちは、天地の恵み(全体と呼んでも神と呼ん でも同じですが)に育まれて生起しています。しかし、樹木が樹木 として「立ちゐる」ことには、独自の「いのちの意志」というべき 流れが樹木に内在しているのかも知れません。彼女はこれを「うす くらき樹木のなかをしづかにながるる本流」として具象化して想起 するのです。樹木にふとしも感じた「いのちの気配」、そのみなも とに彼女はこのようにして触れるのです。 ・木のなかに遠しほさゐに似たるおときこえてをりぬ野分の前を           (歌集・白雁) 台風の近づくとき、水中の魚はそれをいち早く察知するそうで す。地上の木も同じ…。万象のいのちが密かに身構えているとき、 彼女は木のなかに「遠しほさゐに似たるおと」として、木の脅えを 感じてやまない。  こうした鋭敏な気づきをもって、彼女は人間という存在のよるべ なさを木にたずねる。 ・来たれるものでなく来たらざるものでもなく木よ、にんげんは           (歌集・白雁)  過去をひきずり未来への予断に生きることは「事」の次元、すな わちマーヤー(幻)ではないのか。人もまた、いま・ここに投げ出 されている存在ではないのか。なれば人もまた、己れを囲む「見え ざる計らい」に応えて立っているはずではないのか。身ぬちに「本 流」がながれているはずではないのか…。

美惠子MENUCONTENTSHOME