彼女の作品にしばしば「樹木・木」が現れます。しかし、それら
はいわゆる写生・叙景の対象ではなく、寄物陳思の題材でもありま
せん。ひたすら「たずねる」ものです。
・葉のすべて落ちあきらかに知りたりし木は一本づつ立ちてゐるこ
と (歌集・日常空間)
落葉のきわまった裸木の姿に改めて「木は一本づつ立ちてゐるこ
と」をあきらかに知ったという。裸木は、花の季といった「時の推
移」と隔絶した無残なまでの木本来の姿のごとくです。この姿があ
らわに示していることは、文字通り「一本づつ」という孤独の様、
そしてなによりも「立ちてゐる」という自律の様です。彼女はこの
紛れなき有様に思いをひそめて戦く。その戦きの目に映る木は、お
そらく「べつなじかん」に在る木です。
何度も触れたように、彼女は「推移して行く事でなく、存在とし
てそのまま不変である物の内面の真実を探る」。ゆえに、眼前の木
もまた、移ろう現象(事)としてではなく、不変のまことを孕む存
在(物)として捉えているのだと思います。
・一本づつ木は木のまはりの目に見えぬものに囲まれ立ちてゐるな
らむ (歌集・白雁)
木が立っている。その盤石のたたづまいに対して、彼女は「目に
見えぬものに囲まれてゐる」のではと、なにか「見えざる計らい」
を察知する。木はその「見えざる計らい」に応えつづけている存在
なのかも知れません。
「木が立ちてゐる」ということは、彼女にとって「永遠の次元」に
立ついのちの姿を象徴するものなのだと思います。
・どのやうに変りきたるやどのやうに変らざりしや知りたしよ 木
よ (歌集・白雁)
・またしても木は始めなく終りなく立ちてゐるものと思ひてをりぬ
(歌集・白雁)
かくして彼女は、木がただ「立ちてゐること」、その不変性・そ
の不可思議を「愚かしくたずねる」ばかりです。同じならずして同
じなるもの…、始めなく終りなきもの…。まるで「いのちそのも
の」を問うごときです。
・本流はただにしづかにうすくらき樹木のなかをながるるならめ
(歌集・白雁)
もとより樹木のいのちは、天地の恵み(全体と呼んでも神と呼ん
でも同じですが)に育まれて生起しています。しかし、樹木が樹木
として「立ちゐる」ことには、独自の「いのちの意志」というべき
流れが樹木に内在しているのかも知れません。彼女はこれを「うす
くらき樹木のなかをしづかにながるる本流」として具象化して想起
するのです。樹木にふとしも感じた「いのちの気配」、そのみなも
とに彼女はこのようにして触れるのです。
・木のなかに遠しほさゐに似たるおときこえてをりぬ野分の前を
(歌集・白雁)
台風の近づくとき、水中の魚はそれをいち早く察知するそうで
す。地上の木も同じ…。万象のいのちが密かに身構えているとき、
彼女は木のなかに「遠しほさゐに似たるおと」として、木の脅えを
感じてやまない。
こうした鋭敏な気づきをもって、彼女は人間という存在のよるべ
なさを木にたずねる。
・来たれるものでなく来たらざるものでもなく木よ、にんげんは
(歌集・白雁)
過去をひきずり未来への予断に生きることは「事」の次元、すな
わちマーヤー(幻)ではないのか。人もまた、いま・ここに投げ出
されている存在ではないのか。なれば人もまた、己れを囲む「見え
ざる計らい」に応えて立っているはずではないのか。身ぬちに「本
流」がながれているはずではないのか…。
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