《谷井美惠子ノート》        10 11 12



ノートG

冬の木に咲くをとこの花

 谷井美惠子が「男」を歌った作品は、さほどの数はありませんが、 それらは悉く哀切な抒べをもっており、「男」という存在に対する る「いたみ」がつらぬかれています。なぜなのか。今回は、彼女の 眼差しに映る「普遍の男の姿」をたずねてみたいと思います。 ・男もつその繊細なかなしみは白き秋霜よりわくならめ                           (歌集・日常空間)  晩秋に降りる霜は、わずかとはいえ、草木を締めつける激しさが あるそうです。この秋霜との類想によって、彼女は男のもつ「繊細 なかなしみ」を見定めています。一般に男らしさは豪放・磊落・力 強さといった通念ですが、この歌は、その正反対の男のこころ根を 示しています。湿潤なかなしみでなく、かぼそく寒さに凍るような かなしみ…。 ・ふと思ふ 冬の木に咲く花ばなは男のいだく傷にあらずや                       (砂金十五年三月号)  よくよく思えば、あの無骨な固い木に花が咲くのも不思議であり、 まして冬の冷たいくうかんに花が咲くのも不思議です。春や夏の草 花なら、盛んないのちの発露として納得できます。野山全体がその 花をこぞって祝福しているごときです。しかし「冬の木」は冬ざれ の風景の中、ひとり花を咲かせる。その花の露出はなんなのか。彼 女はそれを「男のいだく傷」ではないのかと歌うのです。  極言しますと、男は子宮をもたず、いのちを孕むことができない。 それは大地に根ざしていない仮象の花のごとくです。男のよるべな さ・危うさは、ここに本来の由縁があるのではないか。彼女はこう した男の本質を見すえて、さらに人間そのものの象徴として、その 「いたみ」を歌っているのだと思います。 ・曼珠沙華もちて行くは男なりとはにをとこの提ぐるとおもふ                        (歌集・日常空間)  少女なら野菊とか竜胆などを提げている姿が似つかわしい。その 提げる花は少女のいのちに通底しているからです。しかるに「男」 が提げる花は、血の色の花冠をかかげるだけの彼岸花であるという。 もとより彼岸花は他の草花と異質であり、さらに言えば、この世に 根ざす花ではないのかも知れません。 ・男ざかりのかくかなしもよ山茶花に差す月明の惑はしに立つ                    (歌集・水をのむ山羊)  男ざかりというのは、心身ともに充実し、社会との関わりにおい て最も生産的な人生の期間、つまりは有為の意味に大きな手応えを 得る季節であることを指します。ところが、彼女はその男ざかりを 「かなしもよ」と詠嘆する。それは「山茶花に差す月明の惑はしに 立つ」ようなものだからという。  こうした見方に異論があるのは当然です。 ・をとこ着る和服姿の紺色の裏がはに緋のかなしみ満ちむ                      (歌集・水をのむ山羊)  しかし、「なにかをする」ことより「どう在るか」が安心立命の 道ならば、男たちのやみくもな有為は、自らのよるべなさを癒すも のでなく、むしろ傷口を広げるものです。ゆえに男の晴着姿に対し ても、彼女は「緋のかなしみ」を見るのではないでしょうか。 ・白粥のひかりのごとく水底にしづみてありぬ父の手拭                           (歌集・日常空間) ・夕ほのほしづまらぬ野火 亡き夫の体をめぐりてゐたる火の花                     (砂金十三年五月号)  これらの肉身に対する挽歌は、情愛だけでなく、「男」について の彼女の「いたみ」が翳っています。「父の手拭」の惨いまでの無 言の表情、亡き夫の体をめぐっていた「火の花」、その孤独な気配 にそれが感じられないでしょうか。 

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