そこに花が咲いている。それを見る。すると私たちは即座に例え
ば「薔薇」と認知し、「美しい」といった言葉を口にしがちです。
そこでは、まずもってその対象を「薔薇」と名指すという知識が介
入しています。また、「美しい」との陳述も「薔薇は美しい」とい
う借り物の通念を踏襲するものかも知れません。よしんば「美しい」
という感じを抱き、かく表現したとしても、それが薔薇と呼ばれて
いる対象とのいかほどの関わりなのか。それは言葉(思考)による
解釈にすぎず、本当に「見る」ことなのだろうか…。
これはみもふたもない難詰のようです。しかし、谷井美恵子は、
この疑問に「愚直なまでに」ぶつかりつづけています。
・あざやかに杉と呼べり傾きて立ちをりたればはじめてよびぬ
(歌集・日常空間)
杉はまっすぐに立つもの。この先入観を破る「傾きて立ちをる」
姿に出会って、はじめて彼女は「杉」という概念を自分の新しい体
験として手に入れたのです。その「杉」との関わりは、過去の知識
に依存するリアクション(反復)ではなく、「いま・ここ」におけ
る一回性のレスポンス(応答)なのです。
・身のそばにありて時をりきらめける誤りて覚えたりしものたち
(歌集・日常空間)
この歌は、先の体験を普遍的に示すものです。机とか障子・万年
筆・やかん・畳…、なんでも同じでしょう。ありふれた身の回りの
ものを私たちは慣習の中でなんの疑いももたずに呼び慣らし、人間
にとっての有用性の意味を与えています。しかし、それらは「誤り
て覚えたりしもの」なのかも知れません。彼女の目には、時折もの
たちが独自のいのちある存在としてきらめく。不透明な言葉の介在
しない沈黙の中で…。
・思ひ定めてゐるところより本当は離れて木は立ちゐるのではない
か (歌集・日常空間)
「見る」といいつつ、そこに言葉(思考)が介入することにより、
結果として対象から「よそ見」しているのではないか。物の内面の
真実と「いま・ここで」直面しようとする彼女にとって、「見えて
いるもの」は「思ひ定めてゐる」だけなのかも知れないのです。彼
女が「愚かしくたずねる」と宣言し、「歌びとは頭など良くない方
がいい」と断言するのは、「よそ見」すなわち安直な叙述の姿勢を
自らに戒めるからです。叙述の雄弁性ではなく、感応の全面性を求
めるからです。
・見つめゐる杉の輪郭うすれゆき樹のなかくらくみえはじめけり
(歌集・白雁)
優れた画家なら、対象の質感や量感、内なる律動まで捉えるでし
ょうが、通常、私たちは対象の形象・輪郭をまっさきに捉え、それ
で事足りてしまいがちです。おそらく、これは概念のレッテル貼り
で対象を見たつもりになる思考と同然のことと考えます。この歌は、
こうした次元を越えたところの「見ること」、輪郭でなく内面との
関わりを示すものです。
・まのあたりいちまいの水きらめけるいまを見てゐて見えざるいの
ち (歌集・白雁)
彼女の「目に見えないものにひそむ真実のすがたをたずねる」と
いった言い方は、「見る」ことと言語表現についての根深いためら
いを背後に担っているものです。「見えざるいのち」の真実は沈黙
の中にある。それは隠れているのではなく、いつも眼前にきらめい
ている。見えない理由はこちらにある。にもかかわらず、歌びとは
言葉を操るという自己矛盾をかかえて歌い定めようとする。この困
難の最前線に谷井美惠子が立っています。
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