《谷井美惠子ノート》        10 11 12

ノートF

いまを見てゐて見えざるいのち

そこに花が咲いている。それを見る。すると私たちは即座に例え ば「薔薇」と認知し、「美しい」といった言葉を口にしがちです。 そこでは、まずもってその対象を「薔薇」と名指すという知識が介 入しています。また、「美しい」との陳述も「薔薇は美しい」とい う借り物の通念を踏襲するものかも知れません。よしんば「美しい」 という感じを抱き、かく表現したとしても、それが薔薇と呼ばれて いる対象とのいかほどの関わりなのか。それは言葉(思考)による 解釈にすぎず、本当に「見る」ことなのだろうか…。  これはみもふたもない難詰のようです。しかし、谷井美恵子は、 この疑問に「愚直なまでに」ぶつかりつづけています。 ・あざやかに杉と呼べり傾きて立ちをりたればはじめてよびぬ                        (歌集・日常空間) 杉はまっすぐに立つもの。この先入観を破る「傾きて立ちをる」 姿に出会って、はじめて彼女は「杉」という概念を自分の新しい体 験として手に入れたのです。その「杉」との関わりは、過去の知識 に依存するリアクション(反復)ではなく、「いま・ここ」におけ る一回性のレスポンス(応答)なのです。 ・身のそばにありて時をりきらめける誤りて覚えたりしものたち                      (歌集・日常空間) この歌は、先の体験を普遍的に示すものです。机とか障子・万年 筆・やかん・畳…、なんでも同じでしょう。ありふれた身の回りの ものを私たちは慣習の中でなんの疑いももたずに呼び慣らし、人間 にとっての有用性の意味を与えています。しかし、それらは「誤り て覚えたりしもの」なのかも知れません。彼女の目には、時折もの たちが独自のいのちある存在としてきらめく。不透明な言葉の介在 しない沈黙の中で…。 ・思ひ定めてゐるところより本当は離れて木は立ちゐるのではない  か                    (歌集・日常空間)  「見る」といいつつ、そこに言葉(思考)が介入することにより、 結果として対象から「よそ見」しているのではないか。物の内面の 真実と「いま・ここで」直面しようとする彼女にとって、「見えて いるもの」は「思ひ定めてゐる」だけなのかも知れないのです。彼 女が「愚かしくたずねる」と宣言し、「歌びとは頭など良くない方 がいい」と断言するのは、「よそ見」すなわち安直な叙述の姿勢を 自らに戒めるからです。叙述の雄弁性ではなく、感応の全面性を求 めるからです。 ・見つめゐる杉の輪郭うすれゆき樹のなかくらくみえはじめけり                        (歌集・白雁)  優れた画家なら、対象の質感や量感、内なる律動まで捉えるでし ょうが、通常、私たちは対象の形象・輪郭をまっさきに捉え、それ で事足りてしまいがちです。おそらく、これは概念のレッテル貼り で対象を見たつもりになる思考と同然のことと考えます。この歌は、 こうした次元を越えたところの「見ること」、輪郭でなく内面との 関わりを示すものです。 ・まのあたりいちまいの水きらめけるいまを見てゐて見えざるいの  ち                     (歌集・白雁) 彼女の「目に見えないものにひそむ真実のすがたをたずねる」と いった言い方は、「見る」ことと言語表現についての根深いためら いを背後に担っているものです。「見えざるいのち」の真実は沈黙 の中にある。それは隠れているのではなく、いつも眼前にきらめい ている。見えない理由はこちらにある。にもかかわらず、歌びとは 言葉を操るという自己矛盾をかかえて歌い定めようとする。この困 難の最前線に谷井美惠子が立っています。

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