《詩のポジション》 表現の実・虚・正  2 3 4 5 6    


6 見るべきは「個」の思いの深さ 
 
芭蕉の「実」「虚」「正」という“詩”の表現の観点を牽強附会 し、次のようなことを書きなぐってきました。  “詩”は特別な題材と技法によって創られるものではない。獲得 する持ち物でもない。“詩”は私たちの「文学的な思惑」とは関わ りなくそこに潜在しており、特別ではなくて「正」と芭蕉が呼んだ ような一つの姿勢において私たち内部のなにものかと響き合う。そ の時の精妙かつ極細な意識の爆発のようなものを“詩”と考えてみ たい。もし、そうであるなら、“詩”への架橋を妨げているのは、 認識・感応の中枢として最も頼りにし、それ自体が「私」であるご とく同一化している思考装置、すなわち自我(マインド)ではない のか──。こういう逆説的な憶測でした。  この憶測の行き着くところとして「個」という存在を仮説しまし たが、だからといって、それをいわゆる「魂」の領域へ短絡させる つもりはありません。ただただ、“詩”を味わう上での一つの方便 として、お含みおきください。例えば、斎藤茂吉の次のような歌を こんな風に味わってみたいのです。 ・赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり この作品は、写生でも叙情でもないと思います。伝える内容が先 にあって、表現者の解釈・主張のフィルターを通して言葉に置き換 えたものではないということです。むしろ、言葉にできないもの、 見えないもの、普段の思考・感覚では捉えられないものについて、 このような表現で“探りを入れて”いるのではないでしょうか。そ れを近代的自我の不安の象徴だとか、実存意識のゆらぎなどと先走 った解釈をするのは容易です。しかし、私たちは、茂吉がこのよう に表現のベクトルを配し、テンテンテン…コツンと当たるように仕 組んだ、その架橋そのものに茂吉とともに参画すべきなのです。上 句と下句の隙間に目眩する中で、意識の奥底にひらめく微かな悲鳴 のような、どこか凶々しいおののきを一瞬だけでも感じればいいの だと思います。  これは「実」ではありません。「虚」でもありません。茂吉が関 わったのは、赤茄子のかたわらを介した世界全体です。そこで落ち 込んだ時空の隙間の奥に響いたもの、それはもはや茂吉の自我を越 えており、茂吉にあらざる内なるなにものか、「個」に関わるおの のきのはず。だからこそ、そのおののきが私たちにも響いてくるの だと思います。  ちなみに、リルケは詩の基本要素として、「痛み・怖れ・ためら い・はじらい・おののき」の五つを掲げています。明らかに題材・ 技法とは別次元の提示であり、意味・感情の雄弁性にまつわる“文 学談義”に囚われない“詩”の本義を示しています。つまり「痛み ・怖れ・ためらい・はじらい・おののいて」いるのは、自己表現す る「私」でなく、心の奥深くで感応し癒されるなにものか、すなわ ち、「個」であると思いたいのです。  では、なにに対して「痛み・怖れ・ためらい・はじらい・おのの いて」いるのか。それは、生の実相のなにを物語っているのか。私 にはわかりません。しかし、その生の神秘の扉は常に開かれている はずであり、事実、先達の多くの歌びとたちの珠玉の作品にその一 瞥があります。そこに見るべきは、此岸に迷う人間の「個」の思い の深さです。その“思い遣り”は独りの世界で為されるものですが、 孤りの欣求ではないと思います。 (了)


CONTENTSHOME