《詩のポジション》 表現の実・虚・正   2 3 4  5 6     


 5 歩行と舞踊  
 
詩の表現を考える一つの手がかりとして、「実」「虚」「正」と いう観点をご紹介し、そのキーワードのごとく、『思考・知識ので しゃばり』ということをくどく難詰してきました。「実」とは過去 の知識の反復・思考の蓄積物であり、「虚」とは知性の放蕩・思考 の創造物である。実と虚というのは人間のマインドの世界にすぎな いのではないか。曖昧ながら、もっと豊かで深い世界があるとした ら、それと関わる姿勢を「正」と考えたい、こういう仮説で話を進 めてきたわけです。  食事のおいしさとは味覚を主役とし、視覚・臭覚が関与したもの。 そこに栄養分析表を持ちこんだら点滴と錠剤で事が済む。音楽の甘 美や律動感は、単なる音波の受信の働きではなく、精神が関与して いる。遊びには目的や意味がなく、遊びそのものの展開がある。つ まり、人間の営みの主役はその都度、交代し、その調和においてト ータルに息づいているのが、奇跡としかいいようのない私たちの生 のありていではないでしょうか。 そこで、詩に関わる行為も、思考装置であるマインドが主役では ないと考えてみたいのです。もちろん、短歌は言語表現であり、言 語を駆使する働きはマインドの協力が必要です。しかしながら、あ くまでも脇役にすぎない。では、その主役はだれなのか。  歌を作ろうとする衝迫が一体どこから来るのか。「思ったこと・ 感じたこと」を明確にしたいという表現欲に近いけれど、「主張」 とは限らない茫洋としたものがあり、もっと奥深くに根ざした感が する。一方では皮膚感覚のような表層のものでもあったりする。少 なくとも、いわゆる伝達という意図に集約できるものではないこと は確かです。  かつてフランスのある詩人が「散文は歩行であり、詩は舞踊であ る」と語ったことがありますが、私はこの断章を以下のように衍延 したいと思います。 歩行とは、目的地に向けての行為であり、目的地に辿り着いたら、 歩行そのものの役割は終わる。つまり、歩行としての言葉・表現は、 意味を伝達する手段にすぎない。しかるに舞踊には目的地はない。 あるのは踊りそのもの、いま・ここの肉体の動きそのもので自己完 結しています。つまり、舞踊としての言葉・表現は、自らが手段即 結果となっているのではないでしょうか。私たちの短歌も散文のよ うに“私の主張”の手段として言葉・表現を扱っていません。語弊 を恐れずに言えば、伝達ではなくて「造型」として自立させようと しています。  そこで、詩の行為の主役はだれかという問いは、“詩”が生との 根源的な関わりの一つの方便とするならば、「生の祝祭をだれが踊 っているのか」また「“私の主張”でなければ、その表現主体はだ れか」という問いに言い換えられないでしょうか。まず、マインド は踊れません。なぜなら、マインドは解釈しかできず、つずまりは、 いま・ここにいないからです。いま・ここに在る者、「正」の姿勢 に立つ者こそが踊るのだと思います。  その踊る者=表現主体は、思考や感情を伝達する「私」ではなく、 まさに“詩”と響き合う中に輪郭されるなにものか、思考や感情の もっと奥、各人の核心に在るなにものかだと言えます。己れならざ る己れ自身、つまり、「個」と呼ぶべき存在自体ではないでしょう か。そして、その「個」は、他者の個とつながり、さらに自然・宇 宙とつながっているのかも知れません。愛そのものへ…。


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