《詩のポジション》 表現の実・虚・正  2 3 4 5 6    


4 おのがじし溢れくるもの
 
谷井美恵子さんから歌集『日常空間』を贈っていただいた時(私 が「砂金」のお仲間に入れていただくずっと前のことです)、その お礼の手紙に「いつも蓄積や展開なしに、一からの地点に舞い戻っ ての無体な世界との関わり方。およそ文学から文学を作るという、 歌人にありがちな痕跡が全くみられません」などと書きなぐったの です。  すると、谷井さんからすぐご返信がありました。「文学から文学 を作るという痕跡がないとのお手紙の一節を読んで、走り回りたい くらい、うれしくなりました」と書いてこられたのです。本当は、 私の放言は小生意気なジャブでした。しかし、このご返事をいただ いて、歌についての様々な主義・主張とは無縁に、ひたすらリアリ ティとの直面だけに関与されてきた谷井さんの立場を改めて思い知 りました。 私たちは、詩とか文学ということに関し、次のような先入観を持 ちがちです。“詩”とは、なにか高邁で常人には達しがたい境地で あり、そこに到るには特別な思想や感覚に基づかなくてはならず、 さらに特別な表現能力の開発・練磨が必要とされる。そんな“詩” の表現には、日常の言葉では力不足で、特別な言葉や修辞が必要だ と考えてしまいがちです。要は、特別な題材と技法で“創られるも の”とみなされています。そして、こうした特別視の延長線上にお いて、「自己表現」だとか「個性」「社会的背景」だとかが関心の 的になる。その結果、作品の鑑賞は“詩”を味わうのでなく、「意 味」「好み」からの品評になる。まるで、“詩”が生活倫理や美学 ・思想を表明する特別な手段のごとく…。  でも、本当にそうでしょうか。“詩”は個人の持ち物でも装具で もないはず。また、求めて達成するものでもないはずです。“詩” は私たちの「文学的な思惑」とは関係なく、そこに潜在し、私たち の意識との出会いによって形づけられるなにごとかだと思いたいの です。B章で申し述べたような「曖昧という大いなる調和」の中で、 そのハーモニーにおののいたり、はじらったり、楽しんだりするこ とに、どこのだれが既得権を持つのか。例えば愛。人を愛するのに 特別な知識や能力が必要でしょうか。それを身につけるまで愛は訪 れないのでしょうか。愛は自ずから生まれるものですよね。  だれもがかけがえなくいまを生きている、ここ以外のどこに“詩” があるのでしょう。“詩”が自ずから生まれるのを邪魔しないよう に、少し視点を変え、 別の回路を開くだけのことでいいはず。その プロセスで言葉が洗われ別の機能を発揮してくる。詩が発見される ものなら、詩の表現力もわが内に発見されるものです。そうした営 みが心を溶かすほどの甘露となる。荒廃と紙一重の差の気づきの痛 みとなる。日常生活との背反となったり、新たな和解の契機になっ たりする。総じて、本当の意味での愛の関わりとなる…。  こうした詩の所以の対極にあるもの、それこそ「文学から文学を 作る」ことだと思います。しかし、そんなことよりも、 私自身がど うなのかということが問題です。  翻って、「詩情とはなにかは谷井美恵子の歌を見よ」と渡辺創刊 者がおっしゃったという谷井さんの作品はどうでしょうか。そこに 取り繕いもなければ、特別な言葉も修辞もない。ただ、うちそとに 溢れ来るものがあり、 それらがあられなくも受けとめられているだ け。愛だけがあります。

 谷井美恵子作品

  はなのじかん

ここにても死ねるごとし水仙の黄のしづまれるかたはらにゐて

うしろ手に日暮るるみちを花ぐるまひきてゆくなり只ひたすらに

あぢさゐの珠に夜露のあふれゆき今しほとけの産みおとさむか

ひそかなるおとに地上の夏つばき掃きつつすでに今日はるかなり

これの世の花は虚無僧 咎ふかき面伏せわれはいだきあゆめる

※「砂金40周年記念歌集(平成10年11月発行)」より

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