《詩のポジション》 表現の実・虚・正   2 3 4 5 6    


  2リアクションとレスポンス 
 
「実」「虚」「正」という表現の一つの判断基準をご紹介しまし たが、実際の判断は、時代によって、また鑑賞者によって違ってき ます。ある人からは「正」とみなされたとしても、他の人からは 「虚」の表現と否定されることがあります。これは微妙で厄介な問 題ですが、多くは表現の通用度合、文脈の理解の幅みたいなもの、 つまり、日常の言語規範に関係しています。歌会などでよく持ち出 される“歌の仕上り”という物謂いは、本当は評者の言語規範から の判断なのです。  しかし、こうした視点を勘案することをいまは保留し、専ら事態 と関わる表現者の姿勢という点でのみ、話を進めます。  さて、私たちは文字通り、実と虚の世界に生きています。ただ し、ここで言う「実」は現実というリアリティではなく、むしろリ アリティの外側、現象の世界であり、多くは常識という論理でやり すごしている世界との意味です。「世間さまに申しわけない」と語 るときの、 なんだかわからないけれど確かに強迫観念として在る世 間のようなものです。つまりは、思考の蓄積物が「実」だと考えて みたいのです。過去の思考のパターン・通念をなぞり、対象との新 たな関与がなされないままに通用する概念上の世界のことです。  「虚」とはなにか。「実」が思考の蓄積物なら、「虚」は思考の 創造物だと思います。例えば「明日」は虚の筆頭です。なぜなら明 日になれば「明日」でなくなる。絶対にやってこない。欲望も同 じ。過去の記憶に基づいて、その再びの享受を求める欲望は、本能 ではなく思考の産物で、そのものにはなんの実体もありません。に もかかわらず、私たちはその欲望にひっぱりまわされています。  この「実」と「虚」に共通していることはなにか。事態との関わ りという点では、事態から“よそ見”をしているということです。 “よそ見”をしていながら、それなりに対処したことになる。つま り、リアクション(反応)で事足りている。リアクションとは、事 態に対して出来合いの概念のレッテル貼りや既成の思考パターンを くり返すことです。そこでは新たな体験・態度決定が迫られること はない。次に、事態と関わる当人、表現主体が“いま・ここに”い ないということが言えます。過去をなぞって「実」に甘んじ、未来 へ仮託して「虚」へ目を外す。「実」とは昨日の知識の反復であ り、「虚」とは明日への想像行為、つまり欲望に代表される思考の 放蕩であると言えないでしょうか。  そうではなく、いま・ここにとどまって、リアクションでなくレ スポンス(応答)として世界と真向かう姿勢、これが「正」に近い のかも知れません。こうした事態へのアプローチは、殆ど宗教の立 場と酷似しています。神はつねに現前している。見えないのはそこ に自分がいないからだ。感じるための回路を自ら閉ざしているから だ。宗教者がこの世をマーヤー(幻)と言うのは、現実が幻と言っ ているのではなく、「実」「虚」にすがる人間の思考そのものの無 明、応答でなく反応する己れの不在を示しているのだと思います。  牽強附会ながら、“詩”も同じだと思います。詩は常に発見され るべくそこに在る。それを困難にしているのは、私たち自身です。 “よそ見”をせず、ただ身のうちそとに起こることを起こるがまま に任せつづけること、そのレスポンスの中にひらめく繊細な感応が 詩の気づきかも知れません。


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