《詩のポジション》 表現の実・虚・正  1 2 3 4 5 6   

※この小論は『砂金』平成十年七月号〜十二月号に掲載の原稿を加筆・訂正したものです。

1 詩を架橋する言葉

 芭蕉の語ったこととして、『黒冊子』に以下のような推敲例が伝 えられています。
いかのぼり @糸切れて雲より落つる凧(実)
A糸切れて雲となりたり凧(虚) B糸切れて雲ともならず凧(正)  まず、芭蕉は@の句について「実にすぎない」と一蹴します。冬 空にあがっている凧の糸が切れて、背景の雲から外れるように落ち る姿を捉えているが、この句はそのままを言葉に置き換えただけに すぎないと断じます。  次にAについては「虚である」と否定します。いわゆる詩的な意 趣としての「雲となりたる」という表現は、芭蕉にとっては単なる 修辞にすぎないということになります。  そして、Bの「雲ともならず凧」の表現を得て、「正である」と されるわけです。ここでは糸が切れた凧の在り様を捉えているだけ でなく、「雲ともならず」という認識において表現主体と凧との “関係”が生まれ、「詩の表現となる」ということでしょう。  「雲ともならず」として凧を見定める意識の姿勢がその要点なの です。その姿勢によって、単なる視覚対象であった凧の在り様が、 表現主体と“一つの世界”のものとして関わり、空に漂う凧と己れ の意識が響き合う。  そして、この「糸切れて雲ともならず凧」という言葉の空間から 微かに感じられてくるなにかがある。縹緲たる冬空に舞い狂う凧の 存り様が、そのままにして己れの意識のなにごとかを物語るごとく 感じられてくる…。いずれにしても、その微かなものは、この表現 を得た言葉から架橋されるものです。こうした架橋そのものが“詩 の行為”であると芭蕉は語っているのだと思います。  その“架橋する言葉”の必要充分条件を具体的にあげることはで きません。ただ、@やAと比較したとき、同じ言葉でありながら、 「糸切れて」「雲」「凧」という言葉が、単に事態・事物を指示す る意味だけではなく、本来の意味と象徴的な意味の膨らみをもって 生きかえってきています。それは一種の言葉の錬金術というべき現 象です。  「実」「虚」という判断をいま一度、確認してみます。「実」と は、概念だけの事態の把握に終始することです。吉本隆明風に言え ば、表現が物事と概念をつなぐ単なる指示表出として機能している だけで、そこに表現主体の意思というべき自己表出がないというこ とです。私たちの短歌においても、“ただごと”の表現を見かけま す。指示されている事態や作者の見解はわかるが、それ以上のなに かが感じられないという作品がそれです。つまり、「実に囚われて いる」ということですが、それは、技法や内容の問題ではなく、事 態との関わりが、概念的な把握、つまり“思考・知識”にとどまっ ている、その姿勢が原因だと思います。そうなれば、いかに言葉が 巧みで意味深げであったとしても、その作品は“架橋”のない雄弁 術の類いとなります。  「虚」とは、本当はこの「実」の姿勢と同じもので、「実」を日 常の文脈を越えた世界(多くは非日常の観念や映像)に置き換えて いることではないでしょうか。心象詠とか幻想であると言われる作 品がそれです。とはいえ、そうした作品の全てが「虚」であるわけ ではなくて、問題は、安易にその観念・映像を“指示表出”してい る場合なのです。 では、「正」の姿勢とはなんなのか。


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