芭蕉の語ったこととして、『黒冊子』に以下のような推敲例が伝
えられています。
いかのぼり
@糸切れて雲より落つる凧(実)
A糸切れて雲となりたり凧(虚)
B糸切れて雲ともならず凧(正)
まず、芭蕉は@の句について「実にすぎない」と一蹴します。冬
空にあがっている凧の糸が切れて、背景の雲から外れるように落ち
る姿を捉えているが、この句はそのままを言葉に置き換えただけに
すぎないと断じます。
次にAについては「虚である」と否定します。いわゆる詩的な意
趣としての「雲となりたる」という表現は、芭蕉にとっては単なる
修辞にすぎないということになります。
そして、Bの「雲ともならず凧」の表現を得て、「正である」と
されるわけです。ここでは糸が切れた凧の在り様を捉えているだけ
でなく、「雲ともならず」という認識において表現主体と凧との
“関係”が生まれ、「詩の表現となる」ということでしょう。
「雲ともならず」として凧を見定める意識の姿勢がその要点なの
です。その姿勢によって、単なる視覚対象であった凧の在り様が、
表現主体と“一つの世界”のものとして関わり、空に漂う凧と己れ
の意識が響き合う。
そして、この「糸切れて雲ともならず凧」という言葉の空間から
微かに感じられてくるなにかがある。縹緲たる冬空に舞い狂う凧の
存り様が、そのままにして己れの意識のなにごとかを物語るごとく
感じられてくる…。いずれにしても、その微かなものは、この表現
を得た言葉から架橋されるものです。こうした架橋そのものが“詩
の行為”であると芭蕉は語っているのだと思います。
その“架橋する言葉”の必要充分条件を具体的にあげることはで
きません。ただ、@やAと比較したとき、同じ言葉でありながら、
「糸切れて」「雲」「凧」という言葉が、単に事態・事物を指示す
る意味だけではなく、本来の意味と象徴的な意味の膨らみをもって
生きかえってきています。それは一種の言葉の錬金術というべき現
象です。
「実」「虚」という判断をいま一度、確認してみます。「実」と
は、概念だけの事態の把握に終始することです。吉本隆明風に言え
ば、表現が物事と概念をつなぐ単なる指示表出として機能している
だけで、そこに表現主体の意思というべき自己表出がないというこ
とです。私たちの短歌においても、“ただごと”の表現を見かけま
す。指示されている事態や作者の見解はわかるが、それ以上のなに
かが感じられないという作品がそれです。つまり、「実に囚われて
いる」ということですが、それは、技法や内容の問題ではなく、事
態との関わりが、概念的な把握、つまり“思考・知識”にとどまっ
ている、その姿勢が原因だと思います。そうなれば、いかに言葉が
巧みで意味深げであったとしても、その作品は“架橋”のない雄弁
術の類いとなります。
「虚」とは、本当はこの「実」の姿勢と同じもので、「実」を日
常の文脈を越えた世界(多くは非日常の観念や映像)に置き換えて
いることではないでしょうか。心象詠とか幻想であると言われる作
品がそれです。とはいえ、そうした作品の全てが「虚」であるわけ
ではなくて、問題は、安易にその観念・映像を“指示表出”してい
る場合なのです。
では、「正」の姿勢とはなんなのか。
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