《詩のポジション》 表現の実・虚・正   2 3 4 5 6     


3 曖昧さを受け容れる

一九九六年十一月号の『銀青集』九月号作品評の中で、谷井美恵 子さんは、こんなことを語っておられます。  堀壽々子「あいまいさ身につくことをいとおしむ六十六年平穏に 生きて」 上句の思いに拍手を送りたい。筋道の通ったところから はひとかけらの詩も生まれない。詩はすべて曖昧なところから生ま れでる。更に言えば歌びとは頭など良くない方がよいのである。 筋道の通ったところとは、理路整然と物事の是非・真偽などを結 論づけたり、人間の行為、ひいては社会の出来事を評論しようとす る「思考・知識」の世界のことです。一方、曖昧なところとは、そ れ以外の全て、すなわち生全体を意味するのだと思います。  もとより、私たちの身のうちそとに筋道の通ったところなど、あ りはしません。自分の心の中を一分間でも覗いてみたら明白です。 むしろ脈絡のない雑多な思念のごった煮ばかり。殆ど気違い沙汰で す。  しかし、このごった煮は「曖昧」ではありません。単なる混雑、 その実体は思考自体が引き起こしている、文字通り頭の中だけの紛 糾だと思います。一方、堀壽々子さんが歌われた「身につく曖昧 さ」とは、日々の暮らしにおける「あれかこれかの判断」のごり押 しを避け、それによって、むしろ受けとめられる人の真実に関わっ ていると思います。「いとおしむ」べきは、己れの曖昧さを貫くい のちの在り様であり、その在り様は、己れを越えてもっともっと深 い曖昧さにつらなっているのかも知れません。 私たちは、普段は思考・知識というマインドによって、己れの曖 昧さを取り繕い、それに気づくことはありません。しかし、時とし て不可知な生の深さに目眩して、稀に一瞬、ゆえなくも手を合わせ たくなるような思いがひらめく。あるいは、あてどなき郷愁に囚わ れる。いかに精妙なバランスで生かされてあるんだというおののき にかられる。また、ゆくりなく踊り出したくなったりする…。  そんな身ぬちからの波動のごとき衝迫は、だれにも明確に告げら れない、ひとりぼっちの曖昧な感覚です。しかしまた、それは底の 底で世界全体とつながっているようであり、まるで幼ない頃の私を たしかに包んでいたような気配を伴っています。もしかしたら、そ れは、いま生きて在ることのみなもとを証すものなのかも知れませ ん。なのになぜ、私はその曖昧さにまむかおうとせずに、思考の脚 色・解釈でおざなりにしようとするのか。  曖昧さとは、 あざとい思考では捉えられない『大いなる調和』の ことなのかも知れません。 曖昧さのゆえに生成変化する世界のハー モニーを承服しない人間のマインドの正体はなにか。その曖昧さに 勇気をもって意識がトータルに応答したなら、もしかしたら、全て がそのままにして神聖と呼ぶべき世界に明転するのかも知れません。 『詩はすべて曖昧なところから生まれでる』との谷井さんの断言は、 このことを示していると思います。  「正」とは、まず曖昧さをそのまま受け容れることかも知れませ ん。頭なんか悪い方がいい。もともと、人間の思考は昨日の借り物 の知識を拠り所にし、どこまでいっても「**について」の域を出 ることができません。曖昧さを受け容れるということは、『いま・ ここで「**」そのものに関わろうとすること』ではないでしょう か。


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