●二郎は元々「旧派の歌」の作者であった
本稿Aで触れたように、二郎は十八歳のときから藤村叡雲の藤波会
塾に入り、いわゆる「旧派の歌」を学んでいます。叡雲死去の後、尾
上柴舟がこれを「紅葉会」と名を改め、引き継いでいますが、二郎は
長きにわたり同会の幹事を務めています。二郎が『香気ある現象に就
いて』という歌論を歌誌『帚木』に発表し、「自然発生的短歌を克服
した純粋短歌」を宣言したのが昭和五年(二郎三十三歳)であること
から、少なくとも十数年の期間、「旧派の歌」の中にどっぷりと浸っ
ていたと考えられます。私は浅学寡聞にして、「旧派の歌」とはなに
かを明確には定義できませんが、おそらく御歌所などで脈々と引き継
がれてきた和歌の世界であり、また。明治以降の落合直文や尾上柴舟
などの短歌も含まれていたと推測されます。二郎はその「旧派の歌」
の発想、歌い方といったものを薬籠中に収めきっていたはずです。
ともあれ、二郎が「自然発生的短歌」と規定し、その態度が「自然
に従属」しており、その歌い方(言語表現の態度)が「叙述的」であ
るとしたのは、まずもって「旧派の歌」であったことは間違いありま
せん。二郎のこの判断が、結果として「旧派の歌」にとどまらず、ア
ララギや前田夕暮の新短歌にまで及んだことは、その新しい創意のラ
ジカルさゆえなのですが、この検証は先に譲り、くだんの「旧派の
歌」を検討してみることにします。その比較検討の材料として、二郎
自身の手になる「旧派の歌」を例にあげます。
@箕面山いくらもこぬに木のまより風のもてくる瀧の音あり
Aここかしこ涼しき瀧のをとするにこころこたへてうごかざらめや
先入主なしに鑑賞してみます。一つの歌い方による作品としては、
一応の完成をみています。@は、箕面山へ吟行に出かけ、その山あい
に分けいるとすぐに瀧の音がした。この音は繁る木の間を涼やかに吹
き通る風が運んできたものであろう…。歌意はこのように辿れ、「木
のまより風のもてくる瀧の音」といった着想を披歴することで、箕面
山の風情を表すとともに、こういう情緒を分かち合う吟行仲間への一
種の挨拶ともなっています。Aは、ここかしこから聞こえてくる涼し
げな瀧の音に耳を澄ませる心地好さを歌っており、これも吟行仲間へ
の「よろしおますなあ」といった共感の挨拶となっています。
ところが、二郎はこれらの歌を克服すべき「叙述的な方法態度」に
よる「自然発生的短歌」であるとしました。どこがどのように「自然
発生的」であり、それを克服するということは、一体どういうことな
のでしょうか。
もし、歌に「近代的自我」といった主体を求め、それに基づく思想
性に重きを置く「文学」的な見地から見れば、ここにあるのはきわめ
て慣習的な情趣を再生産するものであり、自然との新しい緊張関係が
なく、そこに時代性も思想もない。常套的表現による箱庭感覚の遊戯
にすぎず、こんなことだから新しい時代・社会と対峙する新しい歌と
なりえないといった批判がされるでしょう。しかし、二郎の視点は、
こういう批判と全く別の次元からのものであり、それがすでにその批
判をも飲みこむものであったと考えます。
●「第一表現対象」と「アプリオリな現実」との混同
@箕面山いくらもこぬに木のまより風のもてくる瀧の音あり
私たちは、一般通念としてこの歌を叙景歌・写生歌としてうけとめ
ます。その際、この歌の表現対象を「箕面山、作者が感じた一定の風
情」とみなします。言い換えれば、作品の主題・題材を表現対象とみ
なし、その見方から、作者の表現がいかに対象をとらえているか、ど
ういう感興を抒べているか、そのための表現が的確か・効果的かなど
を味わいます。当然のようですが、実はこの見方は、表現以前に「現
実(対象)」があることを前提としています。ところが、よくよく私
たちの作歌体験を思い起こすと、微妙な言い方ですが、作品自体、言
葉を周旋しているその場自体がまずもっての「表現対象」であること
に気づきます。言葉(吉本隆明流に言えばその指示表出・自己表出の
機能)によって思念を打ち出し、イメージを描き、広い意味での思考
のニュアンスを囲い込み、それらによってさらになにものかへ架橋さ
せようとしている…。作歌時の意識は、いわゆる現実ではなく、眼前
の言葉の空間に向かっている…、こういうことだと思います。
これに関し、西脇順三郎は「概念と現実」という詩論の中で、「表
現するといふことは、対象を創造することであって、対象を複写する
ことでない。表現の存在以前に対象が存在すると考えることは、一つ
のillusionにすぎなく、丁度、風見鶏が南を指さした理由によって風
が南の方向へ吹き始めると考へるにひとしい」と語っています。そし
て、表現される対象について、概念という表現の材料を使って具体化
されるものは「第一表現対象」であり、これはデカルトのcogitatio
(思考)の世界であるとしています。また、理解・意志・想像・感情
などの精神活動を含むcogitatio自身は、表現の一つの形式にすぎな
いと付言し、「第一表現対象」の向こうにさらに「表現の究極対象」
があることを指し示しています。
二郎の例歌に戻ります。
@箕面山いくらもこぬに木のまより風のもてくる瀧の音あり
この歌は「箕面山」に関して、あるいは触発されて表現されたもの
です。しかし、この作品自体、つまり、「第一表現対象」は、先に鑑
賞した感興とそこに含まれた挨拶の気分をかもす言葉の世界です。と
ころが、私たちは「箕面山」を歌ったものとして受け取ります。これ
は「第一表現対象」と表現以前の「箕面山」を同一視・混同すること
であり、作品を「箕面山」の一つの複写とみなすことです。言い換え
れば「箕面山について」という主題が表現の対象であると考えている
わけです。
問題はこうです。とはいえ、この作品はこうした「第一表現対象」
と「**について」という主題(表現以前のアプリオリな現実)との
同一視、あるいは混同において鑑賞されるものです。二郎が抒べた情
趣は、通念としての「箕面山」にべったりと貼りついており、それゆ
えに吟行仲間への挨拶となるものです。作品自体=「第一表現対象」
は、アプリオリな現実に依存することによって成立していると言うこ
とができます。このことを二郎は「自然に従属する」と規定したのだ
と思います。そして「自然発生的」とは、「第一表現対象」と「**
について」の主題との同一視に無自覚のまま表現していることを指し
ていると思います。そして、この態度を具体化する言語表現の特徴を
『叙述的な方法態度』とみなしたのではと考えます。
●『叙述的な方法態度』を超える二郎の新しい歌
この点について、二郎の「新しい歌」と比べて検証してみます。
Aここかしこ涼しき瀧のをとするにこころこたへてうごかざらめや
Bひらひらとネクタイたらす気ぶんには郊外にまでさきとどきてあり
C風船にあててゐる草のなか秋ふかしこころも破裂へちかし
Dしよんぼりと霧に飢ゑをるえんとつのまるみなり日暮れはこころも
猫なり
心・気分を題材としても、このように表現が違います。Aの作品は
前述のように、「第一表現対象」そのものの独立性は脆弱で、アプリ
オリな「箕面山」に依存し、それと「なにしてなんとやら」という叙
述内容との同一視(箕面山の複写とみなすこと)の上で、一定の感興
を形成しています。そして、言葉一つひとつを見ても、その同一視に
呪縛された(自然に従属した)ままで、その叙述内容(概念)以上の
ふくらみをもっていません。
しかるにBCDの作品は、アプリオリな現実から離れ、文字通り、
この表現の世界だけで自立しています。つまり、「第一表現対象」が
自ら言語空間を広げています。私たちは、どうしてもこういう表現を
比喩・感覚的表現といった納得の仕方をしてしまいますが、これは何
度も言うように「第一表現対象」と「**について」の主題との同一
視からの見方ではないでしょうか。これら作品の言葉の自在さ・清新
さは、叙述的な表現をふっきっているからだと思います。
言葉・概念は、事物を識別し、一定の論理的整合のある事象・物象
を表現しうるとされていますが、これは一定の物の見方・感じ方に基
づいた言語規範を前提としている場合に限られるのではないでしょう
か。そこでは、一定の概念・文脈はアプリオリな現実と同一視されて
いると考えられます。(もちろん、そうであるからこそ通常のコミュ
ニケーションが成立しているわけですが、文学とりわけ詩の表現の場
合は、この同一視・混同が重大な枷となるわけです)。西脇順三郎の
言を借りれば、「言語記号は意味を識別するのでなく、思考の世界を
意味する乃至表現するところの概念を識別する」だけなのです。つま
り、言葉がなしうることは広い意味の思考の表現であって、いわゆる
現実そのものではありません。こう考えると、二郎のBCDの作品は、
決して奇異な表現でも感覚的なレトリックでもなく、ただこの表現に
よって新しい対象を創造しているだけであると言えます。
@やAの作品は、現実(自然)と相対した叙景歌であるようにみえ
て、本当は二郎の言う「叙述的な方法態度」により、自然に従属した
一定の物の見方・感じ方をなぞるにとどまっています。そして、その
「第一表現対象」の世界はそこで自己完結しています。自己完結とは
その表現世界が作者の思考の内に収斂していることです。一方、BC
Dの作品は、新しい対象を「第一表現対象」の世界に『再造』し、作
者の思考の世界を超えており、それ自身が一つの表現形態として、ア
プリオリな現実ならざるリアリティ、西脇順三郎の言う「表現の究極
対象」、当時の二郎の言い方なら「物象の世界」の表現となっている
のではないでしょうか。
なお、「叙述的な方法態度」の歌というのは、単に叙景・写生の歌
にとどまらず、心象・感情・思念を題材とした歌も同然のことが言え
ます。そして、そうした歌は、現代の短歌の世界でも、殆どがそうで
あると言っても過言ではありません。もちろん「叙述的な方法態度」
の歌はそれはそれとして一つの表現であり、否定されるべきものでは
ありません。また、言語表現における「叙述」に対立するものはなに
かを早急に仮定することは容易ではなく、当時の二郎も「叙述的」と
言うにとどめています。ただ、その範疇の作品であっても、最も良質
なポエジーを孕む作品は、「第一表現対象」の世界を超えているとい
うことはたしかです。
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