E「日本歌人」のモダニストたち

鮮烈な光芒を放っていた二郎の作品は
「モダニズムの牙城」にあってさえも
当初から異質だったのかも知れない。



前川佐美雄編集の『日本歌人』は、昭和九年六月の創刊。早野二郎 はその創立同人でした。当時の『日本歌人』は、西欧の文学論や美術 論をいち早く紹介したり、歌人に限らず堀口大学・稲垣足穂・小林秀 雄といった作家の寄稿もあり、総合芸術誌の趣を呈する活力にあふれ た清新な歌誌でした。また、表紙の絵は棟方志功の版画で飾られてい ます。こうした『日本歌人』について、多くの人が賛嘆の意を表し、 多くの「短歌史」めいた書物に当時の主要同人の作品も含めて書きし るされています。  私の手元にその当時の『日本歌人』の殆どがあります。そこには早 野二郎の鮮烈なデビューと石川信雄の手放しの評価、前川佐美雄が一 目をおかざるをえない状況が見てとれ、二郎が新しい歌の作家・タン キストとして最も注目を集めていたことが容易にわかります。にもか かわらず、戦後の『日本歌人』を紹介した書物には、早野二郎の名は どこにもありません。存在しなかったごときです。その理由を詮索す ることは虚しいことですが、ただ、それらの書物の著者の無知だけは 指摘しておくべきかも知れません。  ともあれ、ダダイズム・シュルレアリスムといった西欧の新しい芸 術思潮のうねりに呼応し、清新のポエジー運動を展開しようとした当 時の『日本歌人』からは、自由律(新短歌)とは一線を画して、新し い歌を追求する“モダニスト”を輩出しています。  では、その“モダニスト”達の作品がどんなものであったのか。昭 和十一年の『日本歌人』十月号に石川信雄が「正銘現代派の自己宣明 (一九三六年の第一線)」という評論を掲載。ここで、当時の「モダ ニズム或ひはモデルニスムの実体を明らかにする」として、「一九三 六年の第一線歌人」の作品を列挙しています。なお、その際、信雄は 「ある日、次のやうな分類に耽って見たことがある」と列挙歌人の作 風を概括しています。以下にその分類を付して、作品を再録します。
前川佐美雄(=新浪漫派)                   かき ・豚や家鴨を追ひて暮らせど野のすゑに墻ありかきの薔薇咲きて春
・せなすぢの荒くなりし蛇が夏すぎて穴にかへりゆくは忘れられない 早野二郎(=新現代派) ・鐡の手すりの魅力はうつくしい白なればあなたと距離ありうみのう  へなり ・五重の塔をちかくの萩がうづめ去ればはなふかくなりぐるりに手を  だす
筏井嘉一(=新現実派) 、 、 ・いまここにわれといふもの息づけりただそれだけと思ひけるかも はなびら ・遅ざくら咲きかたぶけり下道をわが通るときに花片は散れり
平田松堂(=新野獣派)
こころ ・伸びきつてそんな小屋は向うに倒さうとする青き草にも生きる情あ
 り ・この小鳥のもも噛みしめて悲しかり皿にはほそてき骨をのせたる 田中武彦(=新印象派) ・野の中の楊を染めて赤い日が出てゐる國を今日は行くかも ・奉天に明くればよべの雨やまず怠りてゐし便りしたたむ 斎藤 史(=ネオ・ファンテエジスト)
アマンド ・山の手町が巴旦杏の花に霞む日にわが旅行切符切られたるなれ
・遠い春湖に沈みしみづからに祭の笛を吹いて逢ひにゆく 石川信雄(=新古典派) ・あをい空のしたにまつしろい家建てるどんな花々の咲きめぐり出す
いのち  た ・生命さへ斷ちてゆかなければならぬ時うつくしき野も手にのせて見
 る  いかがでしょうか。これが昭和十年代初期の「ポエジー運動」の旗 手たちの作品なのです。“モダニズム”と信雄が自ら宣明したこれら の作品は、その実、さまざまな表現方法が混然したものであったこと がわかります。もちろん、佐美雄の寓意的な表現、嘉一の手ばなしの 感傷、松堂の自己挑発めいた抒情、武彦の即物感のある感懐、史の幻 想コラージュに仮託した自己愛、信雄の童画風の散文脈──。六十年 以上の前の作品ながら、いまなお清新なものです。そして、これらの 自由闊達な自己意識の発露のごとき抒情の中に、迫り来る暗い時代へ の微かな脅えの影を嗅ぐことはできます。しかし、これらの作品がそ れぞれのタンキストのレトリックの成果であったにせよ、果たして本 当に“モダニズム”を標榜するに足る明確な方法意識に基づく言語表 現の突出であったのかどうか。この中において、早野二郎の作品は、 時代からも屹立し異彩を放っています。なによりも堅牢な造型性が際 立っています。この点については稿を改めて検証したいと思います。  ちなみに佐美雄は、創刊号の二郎の作品に対して、「超現実主義が 日本に移入され、 数ある作家が出てゐるが(中略)、 それらの画家や 詩人の超現実主義よりは、この早野君の『海への会話』の一連の方が ずつと本物だ」と讃辞を述べる一方で、「私はどうしてもかういふ素 晴らしい作は石川のいふやうに作つて見ようとは思はぬ。実に私とは 異つた人だと考へながら」と二号に書いています。この佐美雄が吐露 した違和感が物語るように、“モダニズムの牙城”にあってさえも、 二郎は当初から異質だったのかも知れません。

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