D晩年の臺氣との邂逅

思えば、晩年一年半の関わり。
しかし、ベレー帽の似合っていた臺氣は
「五十年後の評価を見届けてほしい」との宿題を残されました


いずれどこかで触れざるをえないことなので、私事ながら、早い機 会に早野臺氣と私との関わりについてお話させていただきます。 芦屋に在住していた早野臺氣は、戦後まもなく“超結社”の芦屋短 歌協会を組織し、初代会長として在原業平に因んだ「業平祭」を企画 したり、吉原治良が率いる具体美術協会の作家達との関わりの中で、 新たな創作活動を展開しています。なお、具体美術協会の活動は、わ が国における前衛美術の新しい潮流をつくったものとして、海外から も注目を集めています。そのメンバーは元永定正・白髪一雄・村上三 郎・松谷武判・津高和一・正延正俊・嶋本昭三といった人たちで、当 時はまだ皆三十代前後でした。臺氣は親友の吉原治良と共に、若い彼 等を見守り、同時に触発を得ていたものと推測されます。ちなみに、 浜芦屋町にあった臺氣の住居には、彼等の作品(オブジェ)が無造作に 置かれていました。  私が臺氣と出会ったのは、そうした一つのうねりが終息した後の昭 和四十七年六月。「業平祭」の案内ハガキを見て顔を出した同協会の 歌会の場に臺氣がたまたまいらしたのでした。  当時は会長を辞し、殆ど歌会に出席していなかったとのことで、今 にして思えば不思議な出会い、少なくとも私にとっては運命的な出会 いとなりました。臺氣七十五歳。一方、私は二十四歳でした。歌会の 後、臺氣の方から声をかけてくださり、喫茶店に誘われたのです。 「僕ね、若い頃、万葉集には圧倒されましてな、そのあまり全集を縄 で縛って芦屋の海へ放り投げようとしたことがありますねん」。  そんなことを甲高い声で話される臺氣でした。以来、臺氣は同協会 の会員有志や詩人・前衛画家が集まる「ザ・ラウンド・テーブル」と いう臺氣が座長を務める懇話会に私を誘ったり、ご自宅に招いてくだ さったりしたのでした。臺氣は小柄で柔道家のようなずんぐりした体 型をしていましたが、戦前のモダンボーイの面影を残し、ベレー帽の よく似合う紳士でした。また、ショートピースを愛煙しており、その 内側のケースは作歌のメモとして活用されていました。ある時、知り 合いの娘さんが出ているからということで、関西歌劇団の公演に連れ て行ってもらったことがあります。たしか歌劇の名場面集のような構 成で、「蝶々夫人」やら「カルメン」などが次々と演じられていまし たが、臺氣は開演後ものの30分もすると、「藤本君、帰ろうか」と席 を立ったのです。「ああいうのね、日本の忠臣蔵と同じでんな。かな いまへん」と語られたことが印象に残っています。  とはいえ、私はまだ臺氣の作品について全く知りませんでした。臺 氣もことさらに披瀝するそぶりも見せなかったのです。  一年ほど過ぎた秋の日、臺氣は最近作をしたためた直筆原稿を私に 手渡してくださり、「藤本君、僕は来年、初めての歌集を出そかと思 てますねん。できれば五十年後の評価を君に見届けてほしい」といっ たことを話されたのでした。  しかし、その歌集出版の企ては、 翌昭和四十九年一月十日未明の臺 氣の急逝で頓挫してしまいます。心筋梗塞でした。年末にお伺いし、 「グレゴリオ聖歌」のレコードをプレゼントしたのが最後の逢瀬で、 臺氣とお会いしていたのは、結局、一年半余りです。  ですから、戦前からの歌歴の全容を知ったのは、臺氣没後のことで す。自分の手柄話のようで恐縮なのですが、私は残存の歌誌や自筆原 稿を全て整理させていただき、五十二年一月の命日を期して戦前と戦 後の作品を併せた歌集『海への会話』を編纂しました。(なお、当時 の整理資料を基にした資料集成の戦前編を平成三年に出版。戦後編も 近々に出す予定です)。もちろん、臺氣の仕事に対する見識もないま まに編纂させていただいたというのが実際のところです。同歌集に寄 せる原稿の依頼のため、名古屋の山崎敏夫、茅ヶ崎の前川佐美雄にも 会いに行きました。  印刷は、京都の双林プリント(文童社)。今は亡き社主山前實治氏 は、詩人で『骨』という同人誌を発行していました。同社には詩人の 大野新が働いており、京阪神の詩人や歌人の作品集や同人誌の出版を 扱うところとして、よく知られていたのです。私の第一歌集も同社に お願いしています。前川佐美雄に原稿依頼していることについて、山 前氏は「前川はんの原稿は、あてになりまへんで」と予言され、実際 その通りになったことも今は懐かしい思い出です。  正直のところ、遺稿をガリ版で整理しながら、 これほどの歌人であ った早野臺氣が、なぜ現在の歌壇で無名に近い存在なのかと訝しく思 いました。なぜ、私ごときが臺氣の歌集の編纂をさせていただくこと になっているのかと、義憤めいた思いも持ちました。とはいえ、臺氣 の孤独は臺氣自身が甘受したことです。  なお、臺氣の歌集は、結局のところ、加藤克己と岡部桂一郎以外に 殆ど反響を呼ぶことはありませんでした。むしろ、過去のモダニスト の異物といった揶揄めいた感想をいくつかの歌誌で見かけただけでし た。臺氣が私に「五十年後の評価を見届けてほしい」と言われたこと の意味が、その時すこしわかったような気がしました。  その後、私は二十数年、結社誌や同人誌などとの関わりから離れ、 臺氣についても長くだんまりを決め込んでしまっていたわけです。あ れから四半世紀以上も経ったいま、臺氣について書くことは、不遜な 言い方に聞こえたら申しわけありませんが、「遅くも早くもない」と 思っています。臺氣の志、その作品は「言語表現史」の前方に投げ出 されていると思うからです。

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