C先行者木下利玄

空間の深さの方向を短歌の上に構成しつつあった点は、
日本和歌史上空前の怖るべき存在であった。
利玄が現れて利玄以前と利玄以後が画される(二郎)


早野臺氣(二郎)は、本稿Aでご紹介した通り「香気ある現象に就 いて」という歌論を昭和六年に発表。《歌は自然の従属的地位を離れ て一個独立しなければならぬのだ。即ち逆に自然へはたらきかける─ ─「再造」》という明確な創意を宣言し、従来の『叙する』地平を超 えた言語表現による「純粋短歌」を創作しようとしたのでした。 この「(対象を)表現のうへに於て自然以上の自然へ還元する」方 法を二郎は絵画の用語でデフォルマシオン(変形)と仮称したのです が、そのデフォルマシオンの萌芽を木下利玄に見い出していました。 前掲の歌論の別のところで、次のように語っています。 《しかるに驚嘆すべきことは、わが木下利玄であつた。彼はこのデフ ォルマシオンを作品に於て既に予約していた。じつに空間の深さの方 向を短歌の上に構成しつつあつた点は、日本和歌史上空前の怖るべき 存在であつた》そして、《利玄が現れて利玄以前と利玄以後が画され る》とまで言い切っているのです。 では、人口に膾灸されている利玄の牡丹の歌をとりあげ、二郎の言 うデフォルマシオンの萌芽を検証してみることにします。 @牡丹花は咲き定まりてしづかなり花の占めたる位置のたしかさ A花びらの匂ひ映りあひくれなゐの牡丹の奥のかがよひの濃さ B花になり紅澄める鉢の牡丹しんとしており時ゆくままに これらの作品に対する一般的な評価は、次のようなものです。「牡 丹の美をまともにうたおうとしていて、それ以外に読者に同情をもと めないところを彼の品位、品格としてみとめなければならないのであ る」(宮柊二・注1)。「歌に主観を読みこめといったのは取消した い。唐画の花鳥などをみても人情的なところはすっかりかくして豊か な味のあるものがあるが、君の世界は東洋的で外的の美に没頭してい るところがある」(武者小路実篤・注2)。  これらの批評の行間から、両者の戸惑い・違和感が見てとれるので すが、そこに共通していることは、初めから「牡丹の美」を歌おうと しているという「既知の現実・体験」を前提としている点です。いう までもなく、作者と事物は“表現”において初めて関係するものであ り、表現以前に「牡丹の美」は存在しません。宮柊二は、この作品の 叙法・なんらかの主観のニュアンスのないことへの不足感を覚えなが ら、「牡丹の美をまともにうたおうとしている」として、「同情を求 めない品位、品格」を持ち出しているだけです。一方、武者小路実篤 が筆をすべらせた「東洋的な外的の美に没頭している」という見解は、 果たして当を得ているのでしょうか。  私はむしろ利玄の身近にいた川田順の以下の評価に注目したいと思 います。  「枯淡澄明の涅槃をもって完成と考える傾向が古来東洋人の間に遍 満している。ことにそれが現歌壇の人々達の通念のごとく思われる。 (中略)澄明または枯淡の理想からいうと、利玄の芸術はそれから遠 いものである。(中略)汗水たらしてもどかしく吃って同じ言葉をく りかえして(中略)既往の作を気に入るまで歌い直して万事が執着、 執着であった」(注3) 「澄明または枯淡の理想から遠い」世界とはなにか。「汗水たらし てもどかしく吃って執着」していた利玄の表現とはなにか。それこそ が二郎の目指した「再造」の世界、そのためのデフォルマシオンだっ たと思います。 《注1〜3》日本の詩歌・巻七(中公文庫)

利玄の牡丹の歌は“品位、品格”の所産でもなく、
外的の美に没頭したものでもない。二郎にとっては
デフォルマシオンの先駆けであった


 利玄の牡丹の歌は、「読者に同情をもとめない“品位、品格”」の 所産でもなければ、「東洋的で外的の美に没頭」したものでもない。 「自然発生的短歌を克服した純粋短歌」を希求する早野臺氣(二郎) にとって、そのメチエ(方法意識)であるデフォルマシオンの先駆け とみなすべき世界でした。 では、そのデフォルマシオンの萌芽を見ていきたいと思います。 @牡丹花は咲き定まりてしづかなり花の占めたる位置のたしかさ たしかにここには牡丹の美があります。しかし、それは決まり文句 の“座れば牡丹”の艶やかさではなく、質の違う美が「再造」されて います。それは過去の通念化された美意識をなぞったものではなく、 利玄一人がその時その場で出会ったこと。その盤石のたたずまいを律 する牡丹自らの内的な力に触れた戦きなのです。もし枯淡澄明の東洋 的な感興であるなら、上句だけで言い足りています。また、「しづか なり」も蛇足です。しかし、利玄は「花の占めたる位置のたしかさ」 までも加えました。それはなぜか。利玄の視線は牡丹という存在の内 側にまで至り、そこで感応した「咲き定まる」意志を空間における位 置の揺るぎなさとして表現しようとしたからです。 A花びらの匂ひ映りあひくれなゐの牡丹の奥のかがよひの濃さ 内からの力に支えられて重層する花びら。利玄はその“いのちのか たち”を「花びらの匂ひの映りあひ」という臭覚と視覚の混然たる感 応で輪郭し、さらに「奥のかがよひの濃さ」として質感・量感にあふ れたマッス(塊)にまで立体化しています。ここにあるのは、水墨画 のごとき枯淡澄明の空間ではなく、油絵のごとく“中身のつまった” 空間です。 B花になり紅澄める鉢の牡丹しんとしており時ゆくままに この歌が孕んでいる時間は、おそらく水平に流れいく時間ではなく て、垂直に深みに落ちていく、あるいは上昇する時間です。つまり、 「永遠」なのかも知れません。花ひらくということは、「永遠」のな かに自らを投げ出すこと…。利玄は咲ききった牡丹の内側に、このし ずかな祝祭を直観したのだと思います。  二郎が利玄に注目したのは、こうした対象に対する濃密かつ深い肉 迫と、その造型性であったと考えられます。もちろん、利玄の表現自 体には、通常の言語規範からの逸脱はなく、『叙する』次元を離陸し ていませんでした。それゆえの利玄の推敲の苦闘を、川田順は「もど かしく吃って同じ言葉をくりかえして四四調を引きずりまわして既往 の作を気に入るまで歌い直して万事が執着、執着であった」と指摘し たのではないでしょうか。  翻って、二郎の“牡丹の歌”を見ます。 ・くろぐろと透過し初むる鉄柵ありなんぞ牡丹は體臭をなす(昭和二  十五年・新日光) ここにはもはや牡丹の形体はありません。視線のレンズの絞りが最 大限に開かれ、もはや形体をなぞれないような視野…。そんな時空間 に横溢してくるのは、透過する鉄柵という過激な異物との関係におい て際立つ、牡丹の性感のごときものではないでしょうか。 ・日ににほふ牡丹を露のはなるるに速度を光りは一撃したり(昭和二  十六年・新日光)  清冽な朝の陽光を浴びる牡丹に過剰なまでにズームインし、そこで 目撃した微視の衝突事件。露のしずくする「速度」を「光り」が「一 撃する」という事件現場は、どんな階層の世界なのか。牡丹をとりま く見えざる秩序の気配が一瞬、揺らぐ──。それはエネルギーそのも のの世界なのかも知れません。

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