B「叙する」ことを超える表現

なにがなにしてなんとやらという
「叙する」ことを解体した二郎の表現。
そこには再造された新しい世界がある


 《歌は自然の従属的地位を離れて一個独立しなければならぬのだ。 即ち逆に自然へはたらきかける──「再造」》。これが「自然発生的 短歌を克服した純粋短歌」を希求する臺氣(二郎)の基本スタンスで した。  では、その「再造」の骨組み(言語表現)を二郎の作品に見ること にします。 @KIRA KIRAと硝子かついで泳ぐなるせなかのうみは午后なり波あり A波のなかのわれの水着はきれぎれに縞の黄ながるくらげゆれあふ (@A初出 九年・帚木) 一読して違和感を覚える人がいらっしゃるかも知れません。なぜ、 こんな表現なのか。例えば@の作品なら、「わが背もガラスのごとく 光りゐむ波こえ泳ぐ昼の海原」とでも、“まとも”に表現したらいい ではないか。これなら歌意をスムーズにたどることができる。  こうした違和感とは、第一に「文脈が常軌を逸し、意味を理解しが たい」という不服です。次に「意味は類推できるが、こんな“幼稚っ ぽい”表現では、とりとめがない」という不足感でしょう。さらに、 とくに捨象と抑制を旨とする写生歌に慣れ親しんだ人にとっては、 「いたずらに奇異な表現を衒ったまがいもの」との反発さえ起こしか ねません。 事実、当時も二郎の作品は、一部の理解者を除いて不可解の三字で 突き放されていました。この不可解という拒絶の本当の理由は、その 表現(文脈・言葉の使い方)になじめないということでしょう。言い 換えれば、読み手の言語規範にそぐわないということです。  では、その「そぐわなさ」について検証してみます。「KIRA KIRA と硝子かついで泳ぐなる」。この上句は海面の光を反しながら泳ぐ肉 体の動きを表していますが、「せなかのうみは」とつながる時、表現 の視点が外面を追うのでなく、内面からのものとして仮構されている ことに気づかされます。つまり「せなか」からの視点なのです。  それゆえに、「せなかのうみは午后なり」という新しい脈絡が生ま れ、さらに「波あり」として肉体を包む世界の属目が即物的に関係づ けられてきます。Aの作品も同様にして、水着の縞模様のゆらめきそ のものが主体となり、くらげのゆれあふ海と直面しています。  これらの作品は、なにがなにしてなんとやらと『叙された』文脈で はない。しかし、感覚的表現といった意味からの解読も拒否し、きら めく夏の海と肉体が一体となった世界がそこにある。これは『叙する』 という論理上の意味に向かう文脈だけが写生ではないということを証 しています。この表現に「そぐわなさ」を覚えるのは、私たちの『叙 する』物の見方・感じ方の反映であると思います。  二郎の言う「デフォルマシオン」とは、この『叙する』ことを超え ることではなかったのか。@Aの作品は、いわゆる思考作用、つまり 言葉の分割・区別の機能によって概念的に事態を把握する通常の言葉 の使い方ではない。むしろ、その言語規範を意図的に破ることによっ て成立している。そこには「意味」よりも感覚の純粋造型だけがある。  二郎にとって、「自然の従属的地位を離れる」ことは、事態を単な る文脈でなぞるごとき見方・感じ方を脱し、事態の中に入りこむこと でした。「**について」ではなく「**そのもの」の表現(再造) は、出来合いの文脈に収斂する通常の言語規範を破らざるをえない創 意であったと思うのです。いったん言葉を見失い、海との一体感の中 で蘇った言葉(造型要素)を組立てて「再造」された世界。これが二 郎の「純粋短歌」であったと思います。  ちなみに、@Aの作品について、加藤克己は「この感性の明るさ、 健康さ、なんとたとえたらよいのであろうか。コトバひとつひとつの もつ特性をもっとも端的に発揮して、そのうえそれらをたくみに結合 させ、融和させて見事な世界を表現する」と評価し、二郎の創意の核 心をついています(注1)。  ところで、二郎はこうした新しい表現に果敢に挑戦するまでに、い わゆる「旧派の歌よみ」としての長い歌歴を持っています。二郎は大 正四年、十八歳のときに高僧藤村叡雲の藤波会塾に入り、御歌所や落 合直文風・尾上柴舟風の和歌の指導をうけ、旧派の歌に慣れ親しんで いたのです。この消息について、不二樹一郎は『帚木』(昭和七年五 月号)に寄せた「解剖臺上のジロー・ハヤノ」というエッセーで触れ ていますが、そこで二郎の「和歌」が紹介されています。 ・箕面山いくらもこぬに木のまより風のもてくる瀧の音あり ・ここかしこ涼しき瀧のをとするにこころこたへてうごかざらめや ・てる月のひかりしたたる川岸のねじろ高萱虫すだくなり ・河上のゆつ岩むらにふれる雪その穂よりこそとけそめにけれ  また、この旧派の歌の経験、旧派観について二郎自身が語った言葉 も紹介されています。 《如何なるエスプリ・ヌーボーと雖も芸術は伝統を背負はねばならぬ。 殊に短歌は一層さうあるべきだから、片手にデッサンの筆を走らせる やうに旧派的に、それに依つて新への発展と格調の純化とに益さすべ きである。旧派の歌に苦心するのは全く温床の役目を果して呉れる。 (中略)そして目指す所は…金剛石の様な明瞭なアンテリジャンスの 世界へ個の世界を去って全体へ、否個を通して全体へ…である》 《叙述的な方法態度の歌風なるものは、結局旧派であらうがアララギ であらうが前田氏一派の自由律であらうが、一括して同様の世界と眺 められ、対立的に別な新しい態度が考へられる。(中略)勢ひ僕の旧 派観は人とは別のものとなる。僕は独り勝手に物を考へる時は、現在 の歌壇の大半は旧派並に見たい気がする》 思い切って二郎の説を簡略すれば、なにがなにしてなんとやらのレ トリックは短歌の大方の世界であり、この見方からすれば、旧派もア ララギも自由律も同じということになります。おそらく、この見方は 戦後の前衛短歌にも同じ違和感を二郎に持たせたと考えられます。こ うした中にあって、二郎が唯一、注目した先達が木下利玄でした。次 回は、その木下利玄についての二郎の評価を見届けます。 《注1》『個性』(一九七七年一月号)

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