●「物の世界」は自我にとって居心地が悪い
まず、「物」という言葉に対する生理的な反感・軽視があるのではないだろうか。
「物」を心とか「いのち」の対立概念のように捉えてしまうからではないか。
「物」を無機的ないのちの通わぬもの、それ自身意味のない物体として捉えること
により、「物の内面」などと言われても、それは特殊な感受性をもつ画家とか物理
学者の関わるものであり、我々歌人には無関係の世界とされるのではないか。手だ
れた歌人による優れた写生歌は認めても、それはあくまでも何が叙されているかが
わかる範囲で捨象にもとづく洗練された表現美として、あるいは実相観入の境地とし
て許容されるのである。「物」の内部の見えない世界を露出させた作品と言われたら、
私たちは幻想とか非具象の心象表現といった解釈の物差しを持ち出し、しぶしぶ納得
しようとする。私たちは作品の中に「意味」を求めているのだ。
しかし、ここで求められた「意味」とは、現実として呼び慣らしている次元の観念・
論理、「事」の世界のものなのである。
もっとはっきり言おう。「物」の世界は「私」いや「私の自我」にとって居心地が
悪いのだ。「物」を歌うなどということは、感情移入の風物描写や出来合いの情緒の
再現以外にまったくもって「自己表現」とならない。私の個性を発揮できない。大切
なのは私(=自我)のパフォーマンスなのだから…。おそらくこういうことだろう。
しかしながら、単なる即自的な自我の表明と言語空間においてかろうじて成り立つ自
己表現とは違う。作品の前で見栄を切るような雄弁性を自己表現とは言わない。
自我は知識や財など外面の持ち物を増やして肥大化し、その差別化を図るパフォー
マンスにおいて個性的であろうとする。しかし、その個性を求める自我によって惹き
起されている苦痛や不幸、過ちといったものは数知れず、しかもきわめて類型的なの
である。これはパラドックスである。後天的な自我と人間にもともと備わっているで
あろう個性とは違うと思う。おそらく個性とは、本来の面目たる「自己」であり、内
面の奥深いところから自ずから香る気配のようなものだと思う。にもかかわらず、短
歌の世界でも声高な自我の表明によるパラドックスが再生産されている。巷にあふれ
る自我礼賛の短歌作品に私は個性を感じない。
閑話休題。臺氣の言う「物」の世界は、このことに深いところでつながっていると
思う。
●「事」は思考の次元、「物」は存在の次元ではないか
「事」と「物」を同じ次元で対立するものとして考えることが間違っているのかも
知れない。あれかこれかの選択ではないのだ。「事」とは思考の次元、「物」とは存
在の次元のことではないか。言い換えれば、「事」は現象・合法則性・見える世界の
ことであり、言葉・観念として捉えられる(と思い込んでいる)世界である。一方、
「物」はみなもと・混沌・見えざる世界であり、思考では辿りえない世界のことだと
思う。たしかに人は「事」の世界でかけがえのないいのちを燃やしている。しかし、
人もまた「物」として存在している。いや「物」であることによって自然・宇宙の大
いなる計らいにつらなり生起しているはずである。星のかけらとして星の記憶を孕ん
でたまさかこの地球に生まれているのだと思う。人は肉体を持つ。しかし、その肉体
には食料や空気や光が必要である。必要と言うよりもそれらも肉体の一部ではないの
か。こう考えると肉体のボーダーラインは一個の肉体をはるかに超える。つまり「物」、
全体の中の一つの現れとして人は在る。一輪の薔薇が咲いていることは、自然全体が
咲いているということではないのか。
パソコンに例えたら、まず、物・存在という広大かつ精妙なオペレーションシステ
ム(OS)があり、その上に人間が事・思考のOSを起動させ、この上位のOSで自
我本位のアプリケーションを使って生きている。そして、いつのまにかこのアプリケ
ーションで動く画面上の世界のみを現実とみなし、それと同化してしまっているので
はないだろうか。見える世界、分析判断できる有意味の世界が現実であり、その世界
の主人公は自我なのである。
古今東西の覚醒者は、異口同音に自我の無明を説き、なにものかへの絶対的な明け
渡しを説くが、おそらくそれは「物」の次元・存在の次元への導きではなかったろう
か。現世を「マーヤー(虚仮)」というのは、それが無といっているのではなく、解
釈するだけで存在と直面しえない思考の盲目を示す方便だと思う。時として詩人もま
た、同じように存在との交感を歌ってきた。リルケが詩の基本要素として「痛み・怖
れ・ためらい・はじらい・おののき」を挙げたのは、まさにこの物・存在との交感の
ゆえであろう。存在を神と言っても自然と言っても同じことだと思う。あるいは全体・
一如・一元と言っても同じかも知れない。言葉ではないありさまを示しているだけの
ことであり、それは各人の気質によって心奥に響く言葉が違うだけであろう。
●臺氣が晩年に示したオブジェタンカ
臺氣はこのような宗教めいた人間寄りの言い方は絶対しなかった。まるで絵描きの
ごとく「物を見る」「造型する」といった言い方のみに徹したのである。それは「自
然発生的短歌」の世界の住人に対し、妥協の余地のない、みもふたもない言い方を選
んだのだと推察する。もしも前述のような言い方をしたなら、狡猾な自我は宗教用語
や哲学用語を動員して、「物の世界・存在の世界」を「叙している」作品を持ち出す
からであろう。
臺氣の盟友、具体美術協会の吉原治良は、「具体美術宣言」の中で次のように主張
している。「具体美術においては、物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させ
ない。物質は物質のままでその特質を露呈したとき物語りをはじめ、絶叫さえする。
物質を生かし切ることは精神を生かす方法だ。精神を高めることは物質を精神の場に
導き入れることだ」。ここに言う「物質」を「物」の世界・存在とし、「精神」を思
考を超えた意識の能動性としたら、殆ど臺氣の「物の短歌」の世界を語っていること
になる。ここで、臺氣の晩年の作品を見る。
・アナ背負フ剛鉄ノハダ弓ナリニマガラムトシテ空間痛タム
・牡丹花ハ隠クレナキ恥部鮮烈ニカガミノオモテ豹マナコ覚ム
・牛ノアカ臭氣ノコモルアカノアカ天出發スル猛烈ナ生マ
ここには叙述された意味はない。しかし、吉原の言う「特質を露呈した物質の物語
りと絶叫」がある。これらの作品の造型要素たる言葉(言語規範)の解体と衝突は、
「物質を精神の場(ここでは空間造型力をもつ定型の場)にひきいれる」ことと表裏
一体をなす、臺氣にとって必至の表現形態ではなかったか。これが臺氣が到達した
「オブジェタンカ」なのである。
もちろん、これは臺氣という「個性」が切り開いた「物」の世界であり、
一つの頂きなのである。物・存在に関わる作品は、別な様相をもってさまざまに在り
うるはずである。臺氣の世界の屹立は、その可能性を限定するものではなく、むしろ
広げるものだと思う。
●「初原のよろこび」に満ちた香気ある現象
先ほど「個性とは自我ではなく、内面の奥深いところから自ずから香る気配のよう
なものだ」と述べたが、果たせるかな、岡部桂一郎はかつて臺氣の「香気」について
語ってくださったことがある。
「早野臺氣さんの『香気』を知ったのは遅かったけれど、おどろきでありました。
(中略)(一般的には)『香気』を清新なもの、ハイカラなもの、上品なものという
文芸の属性と考えています。『香気』はそれとは関係がなく、文芸の本質としてある
もので、また時代が経っても、人に問いかけをもつものとどうも私には思えてなりま
せん。汚れた人、疲れた人、若い魂がそれを嗅いで文芸を知り、慰謝を覚えるもので
す」。心うたれるご指摘であるが、桂一郎の言う香気は、自我の別名の人格・品格の
ことではなく、臺氣が「物」の世界、存在に内在する無垢な香気の源泉にいたる表現
者であったことを証明するものだと思う。無垢とは二元論的な自我の思考が介在しな
いということだと思う。その世界は混沌・反意味でありつつ、「痛み・怖れ・ためら
い・はじらい・おののく」べき世界、臺氣の言う「香気ある現象」が生起してやまぬ
世界だと思う。
最後に、わが師、藤川東一郎画伯の手紙の一節を引用させていただく。その師もいま
はこの星を離れている。「美術成立の根底には、唯『見ることの喜び』があり、『形
造る喜び』『彩る喜び』があり、これは倫理的観念を使う叙述以前の人間行動です。
これ以外にも音楽なら、『聞く喜び』『唄う喜び』『音をたてる喜び』があります。
言語はそれぞれの社会の制約の下で成立するので、意味が固定化して、叙述以前の人
間行動となりがたい。この差は大きいと思います。絵をよく画いたヘルマン・ヘッセ
や宮沢賢治、アンデルセンなどの文学はあまり叙述性は強くないとは思われませんか。
タゴールもその一人ですが、人間の初原の喜びを知っていたと感じます。早野師もこ
の種の喜びを唄われたのではないでしょうか。私は師の作品にその喜びを感じます。
人間内面の豊かさです」。