@ プロローグ

早野臺氣こそは、かつてなく、これからも
出ないであろう全く独自な作品をひとりで
おしすすめたすばらしい歌人であった(加藤克己


 おそらく『早野臺氣』という名前に初めて接する方も多くいらっし ゃると思います。概略を言いますと、早野臺氣は戦前の『日本歌人』 を中心とした前川佐美雄・石川信夫・斎藤史・筏井嘉一・加藤克己な どの新風・ポエジー運動の中で、異彩を放っていた歌人。そして、戦 後も前衛精神を枯渇させることなく、前人未踏の表現世界を独りで模 索しつづけたアヴァンギャルドでした。  前川佐美雄は戦前の早野作品を述懐し「その思想は、その感覚はじ つに新しい。しかも完き歌になりきっている。その後、新しい歌はい ろいろあらわれたし、戦後は前衛などと新しい歌をいう人は多いが、 この早野君の歌はどういうことになるのか」と語っています。(注1) また、加藤克己は戦後の作品をも踏まえた上で「とにかく早野臺氣こ そは、かつてなく、これからも出ないであろう全く独自な作品をひと りでおしすすめたすばらしい歌人であったと思う。そして彼は歌壇の 殆どの人の知らぬ間にこれ等すぐれた仕事をなしとげて、ひそかに、 悠然とこの世を去った」と讃辞を述べています(注2)。  これほどの評価を得ながら、その実、とりわけ戦後の歌人に知られ ることなく孤高であった早野臺氣とはどんな歌人であり、その生涯を 貫いた志はなんだったのか。その作品はどんな香気をかもしていたの か。私の拙文の主旨はこれらを浅学非才を顧みずに輪郭しようとする ことです。 今回は、早野臺氣の簡単なプロフィールと前川佐美雄・加藤克己を してかく言わしめた戦前・戦後の代表作品をご紹介します。  本名早野二郎。明治三十一年、大阪の船場に生まれる。十九歳の頃 より藤村叡運という高僧のもとに和歌(旧派の歌)を学ぶ。叡運死去 の後、尾上柴舟が紅葉会として歌会を引継ぎ、早野二郎はその幹事を つとめている。大正十一年、佐々木信綱主宰の『心の華』に入会。こ の頃より西欧の表現派・ダダイズム・シュルレアリスムといった新し い二十世紀芸術の潮流に感応し、昭和五年には『帚木』も発表の場に 加え、「自然発生的な短歌を克服した純粋短歌」を唱えて旺盛な創作 活動を展開。なお、『日本歌人』創刊に参画した昭和九年は二郎三十 七歳の時でした。 戦後は臺氣と号し、尾崎孝子編集の『新日光』と同人誌『未名』な どを発表の場にして、具体美術協会の吉原治良たちとの親交の中で、 「オヴジェタンカ」を志向。昭和四十九年一月十日未明、急逝。享年 七十七歳。                ■
《戦前の作品例》
『海への会話』※「日本歌人」創刊号(昭和九年)発表作品
BOUTONNIEREに薔薇植ゑこめば胸のうへ世界のえんとつをかんじくる
なり なんとこの素敵な日よりの薔薇墻へピストルおとし手のやりばなき
         ′ 山崎敏夫のBOUTONNIEREの位置薔薇になり海への会話がむねにさげらる
スカールをはしらすあたり鯛鱧のうみの家具ならびいつもたのしき 鐡の手すりの魅力はうつくしい白なればあなたと距離ありうみのうへ なり 芝のうへに椅子はパイプでできているからハガネのうぐひすはだかを 曝す × あたらしく肉體に硝子をのみこんで野に晒さるるさくらさき出す しだり櫻の尖にはさくらさきおもり芝さへ裂かるつちに針生へ 縞馬のアパレル野はら春なれば鋳ものの柵も昼まがりてあり 繁殖の器械えんとつ海くぐりヒトデのごとくそらに化せらる われのごとき罰あたりする仕事なれ猫のあたまに日の出あげけり 途はうもなく飛行機あがれる雲のうへつつしみふかくてガラスの髭は むかうゆく別嬪さんの朝げしき薔薇墻たふれて日ぞにほふなる 花をうる花のうつくしい少女見ればブリキの手袋くろく反りあり × かへるでの青い空氣をあたまからそそぎこまれてあたまはふかき 谷の青い葉うらへのぼるやうにこころむちうに氣球できえたし 谷の青い空氣でふらつく木のまへにフランスよりこしカメラマンがあ 樹からこし蝸牛をゆびにははせをればにじる時間が谷のふかさになる かたつぶりの殻の内がはかべさぐり暗いガラスの廣告剥ぐる 六月のかれんなネムのはななぞは谷の青葉が消化したりき まつさをな楓をしたへさしとほるひかりの妹ネムの花のあり
※『日本歌人』創刊号に発表された「海への会話」は、昭和初頭から  独り「自然発生的短歌を克服した純粋短歌」を模索してきた二郎が  そのメチエの成果を新しい仲間たちに問うた作品で、結果、同誌の  同人の間で大きな反響を呼び、次号に前川佐美雄や石川信雄が賛辞 を寄せています。石川信雄とは同誌参画とこの作品が機縁となり、  生涯の親交をむすぶこととなりました。なお、本ファイル目次ペー  ジで述べたように、戦後、石川信雄がモダニズム短歌のアンソロジ  ーを企画し、二郎に戦前の作品をまとめた歌集づくりを要請した際、  その歌集名をぜひ『海への会話』にと進言している。二郎にとって  も石川にとっても、この発表作は記念すべきものでした。                ■
《戦後の作品例》
『旗』※「兵庫県歌人クラブ年刊歌集」(昭和四十八年)発表作品
隆起シタソラハ巨大ニトホクアヲ窓アル加算機アル牛ノヤウナアヲ シャツ アヲイ窓ト俊敏ナジェット機マッシロノShirtヲ信頼スル過度ノヒロ
ガリ
膨大ナ破傷風ノアナ旗ノアナクヅレテユクアナ顔ノケムリ ゼロ 空間ノカタマッタアナアカイアナ零満チタアナウゴク旗ノアナ
極端ナ少女ノニギル鳥ガアリ飛跡メタクタナ狂気ヲネラフ
ゴウテツ アナ背負フ剛鉄ノハダ弓ナリニマガラムトシテ空間痛タム ヴイ アシノウラ梯子ノ絶叫断絶ヘ破レタジカンノVitノシヅマリ 牛ノアカ臭気ノコモルアカノアカ天出発スル猛烈ナ生マ 牡丹花ハ隠レナキ恥部鮮烈ニカガミノオモテ豹マナコ覚ム
ガラスニハ背ナカノ毛アナ知ラレザル肉体ガラスソノ毛端ハ
※晩年どこにも作品を発表することのなかった臺氣でしたが、私に  「来年、初めての歌集を出したい」と語っていた昭和四十八年の久  久の発表作。しかし、翌年一月十日に臺氣は急逝し、この発表作は  生涯アヴァンギャルドであった臺氣が私たちに残した最後の作品と  なりました。一般に「歌人」は、歳を重ねるに従い、作風が大人し  くなり、「自ずからなる円熟」といった枯淡の味わいを見せるもの  ですが、臺氣は全くその逆で、最晩年の作品が最も過激で鮮烈でし  た。本稿は、晩年の臺氣が宣明していたこの「オヴジェタンカ」に  至る軌跡を追うものです。 《注1》『日本歌人』(一九七○年夏号) 《注2》『個性』(一九七七年一月号)

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