淡路雑俳について



この小文は、俳句結社誌『遠野火』掲載原稿を補筆したものです

十数年ばかり、音信不通であった健龍君から突然、結社誌『遠野火』が送ら れてきて、拝読すると、ご尊父の後を承けて主宰となっている。その健龍君か ら私の亡父がたしなんでいた『雑俳』についてなにか書けとの申し付け。おそ らくは、俳句のアイデンティティ確認のための反面教師としようとの思いでし ょう。ともあれ、ご参考になればとの意趣でのみ、恣意にご紹介させていただ くことにします。 ●淡路島の郷土文芸として雑俳が残っています 『雑俳』は、ご存知の方もおありと思いますが、江戸時代に流行した庶民文 芸の一つで、これが、いまなお、私の郷里の淡路島に伝承され、親しまれてい ます。 現在、淡路雅交会という組織で会員数二百名余り。各地に吟社(支社)を擁 して活動しています。機関誌『おのころ』は、盆と暮れの年二回、発行されて います。 手元にある『おのころ』は、父が存命の頃、昭和五十五年発行のものですが、 掲載句を少しあげてみます。 ・タクシー 花嫁頭から降りる ・住み馴れて 大使夫妻の箸さばき ・考えて まだ結論の出ぬロダン ・巡り合い 泣かせたところでコマーシャル ・どんぴしゃり 女の勘の怖さ知り ・怒られたよに怒る上役 ・御馳走知らぬ壁掛けの皿 ・養子来てから売れぬ煙草屋 ・挨拶よりか先に孫抱く ・おしめと乳を聞きわける母 こうした掲載句から、川柳に似た雑俳のおよその色合いをご理解いただける と思います。なお、前半の五句は 五七五の初句の内容を指定して二句三句を 付ける「冠句」という形式で作られたもの。後半の五句は、七七のそれぞれの 頭に折音(指定語句)を設けて折りこむ「折句」という形式で作られたもので す。この「冠句」「折句」の形式については、後で詳しくご説明します。 ●前句付から雑俳と川柳が生まれました 雑俳とは「雑俳諧」のことで、様々な形式による俳諧の総称です。俳諧は、 いうまでもなく、山崎宗鑑や荒木田守武が主張した滑稽・洒落の作風『俳諧の 連歌』から生まれたことはご存知のとおりです。すなわち、『俳諧の連歌』は、 さらに『俳諧』として連歌から独立。江戸時代に入って、貞門、談林、蕉風へ と展開し、近世人の表現形式として民衆の間に広がったわけです。 こうした中で、談林俳諧隆盛の頃から、『前句付』という形式が現れます。 この前句付は、出題の前句(七七)に対して付句(五七五)を付けるもので、 俳諧 修行の方便として行われました。例えば、井原西鶴が点(選)をした前句付が 『塗笠』に見られます。 出題前句 俄かにかはる山川の音 付句1 我夫は箱根をいつか超つらん 付句2 五月雨鮎の背をする岡の松 付句3 雨乞いは名歌のふしぎ曇り来て このように出題の前句に対して、三様の付句がされるわけです。この方便に よれば、直接に宗匠に接しずとも通信教育のような指導を受けることができま す。このため、前句付は、宗匠と俳諧修行の初心者との取次ぎをする『会所』 という仲介業者の出現と相まって、地方へ普及していきます。しかし、前述の   西鶴の出題のような前句は初心者には難しく、選句を摺り物にして有料配布し たり、懸賞をつけるといった会所の興行的な思惑もからんで、前句は次第に平   易なものになり、前句付は、付合いの機知や奇抜さを狙うものになっていきま した。 前句 むねんながらもうれしかりけり 付句 去りかねる老女を人に盗まれて 前句 たのもしきことたのもしきこと 付句 文の矢に心を鍛う夫の留守 こうして前句付は、急速に大衆化して独自の道を歩みはじめ、やがて雑俳と 川柳へと分かれていくことになります。 川柳は、大衆化した前句付から、前句との付合いという制約を取り除いて付 句が独立したものです。このことを当時は、一句立ての自由吟と言ったそうで すが、この自由吟(川柳)成立の契機となったのが、柄井川柳の編纂した『俳 風柳多留』でした。 一方、前句付は、前句に対する付合いという詩形にとどまらず、さらに詩形 が簡易化されるとともに、様々な趣向の形式を生み、それらが『雑俳』と総称さ れることになります。 例えば、上の句(五)を題にして七五を付ける笠付(冠句)、 下の句(五)を題に して五七を付ける沓付、小倉百人一首の和歌の上の句を題にして七五を付ける小 倉付、さらに課題の語または字を指定した場所にはさみこむ折句といった形式が ありました。   なお、笠付は蕉風門下の堀内雲鼓が発句の練習方法として案出したと言われて おり、冠句の祖とされています。今日の俳句の句会などにおける、季語を課題と する課題句は、当時の折句のなごりという見方もできます。 ●淡路雑俳では冠句と折句が継承されています 冒頭にご紹介した例句のように、現在、淡路雑俳で行われている形式は、冠 句と折句の二種類です。 冠句は、ご説明を要しませんので、折句に関して、いま少し詳しく淡路雑俳 の趣向をご説明します。 淡路雑俳における折句の場合、詩形の点で三ッ折(長折)と二ッ折の二つが あり、さらに句切り(読み方)の点から独自の趣向が凝らされています。 @三ッ折…五・七・五の各頭音に折音を設け、七・五・五の調子(句切り) で読む ク レ ム 題「クレム」…苦情に慣れて 税務署の 無表情 A二ッ折…七・七の頭に折音。句切り(読み方)は、七七読みと五五四読み の二つがあります。 チ ヨ 題「チヨ」七七読み…地球を捨てる ように家出し カ キ 題「カキ」五五四読み…加茂の朝 すぐきなど どうどす 以上、ご紹介しましたように、雑俳は「滑稽・洒落の作風/俳諧の連歌」に 端を発し、付合いという俳諧修行の方便そのものの趣向をも加味しつつ、川柳 と一線を画して、今日に継承されている「文芸」と言えます。 こうした雑俳の趣向・形式、その「雑俳らしい」表現内容について『遠野火』   の皆様、すなわち俳句作者の皆様はどのように感じられるでしょうか。 ●少しばかり亡父「清阿弥」の作品を… 前述のように、私の亡父は淡路雑俳の作者であり、淡路雅交会主催の大会に   おいて点(選)を行う宗匠の一人でした。もっとも、父の雑俳を知ったのは私 が父の句集を編もうとした父の晩年であり、その頃には私自身、短歌を表現の 器として選んでいましたので、雑俳に対する親近かつ違和の思いは、ほぼ皆様 と同じではないかとも思います。 父は「清阿弥」を号しており、その作風は『清阿弥調』と呼ばれていたそう です。 ・指の股からのぞく嘘泣き 身内の自慢話になって恐縮ですが、この句は昭和七年の作品で、集句二万句 からの点頭(最選句)作品で、いまなお、語り草になっている著名句だそうで す。この内容について、親子の睦み合いの情景という解釈と、男女の睦み合い の情景という解釈に二分されているらしいのですが、私は後者の説をとってい ます。ちなみに父の晩年の作品に《こそばいとこの増える年頃》というのがあ ります。どうやら父は、こうした色っぽいのを得意としていたふしがあります。 父は義太夫をもう一つの趣味としていたので、いきおい、その人形浄瑠璃の情 緒の世界をトレースしたものが多く、そうした作風が『清阿弥調』の特徴とみな されていたようです。 ・絹行灯 帰しともない雨の音 ・話せば愚痴になりますとうなじ垂れ ・からりころり 口三味線とすれちがい ・こんなになって 老伎儚い色懺悔 もちろん、雑俳の面目躍如たるシニカルな作品やユーモアたっぷりの作品も あります。 ・用意して主賓の席にかけてみる ・自分の顔になって退庁 ・金子ができ同じ禿げでもちがう艶 ・西郷さんもつらい待ち呆け ・くるくると日傘うれしい人を待ち ●雑俳は『文学から文学を作らない』 釈迦に説法になってしまいますが、芭蕉の志は、こうした雑俳の対極にある ことはたしかです。一言で言えば『風雅の道』ですが、日常の俗の地平に意図 的に背を向けて精進するこの『風雅の道』は、西行を代表とするかつての日本 人の基本的な人生観・価値観に支えられていたはずです。それは、無一物の思 想というべきものであり、そこには仏教や老荘思想が色濃く影を落としていま す。ただ、その『風雅の道』について、確かめておきたいことは、現代の私達 が考えがちな自己表現とか、文学性とは、もとより異質であったはずだという ことです。芭蕉をはじめとした先達の作者は、おそらく、今日の「文学的な」 自己表現をめざしたわけではない。 なにやら宗教めいてしまいますが、西行や芭蕉の志は「自己表現」という場 合の「自己」そのものを無とする、空とする世界に行き着くベクトルであった   と思いますし、その血脈は、おそらく今日の俳句や短歌の作者の心に受け継が   れているはずです。 閑話休題。それでは、こうした求道めいた和歌・俳句と比べて、雑俳は俗っ ぽい大衆文芸として片付けておけるでしょうか。というのも、私自身の課題と   しても、いわゆる文学・芸術という考え方が、ともすれば知的なスノビズムに 腐蝕されがちであるからです。なにが純文学でなにが大衆文芸なのか、なにが   芸術でなにが戯作なのか、どこまでがリアリズムでどこまでが常套・陳腐の軽 口なのか──本当は、さほど明確ではないはずです。明確なものは、単なるジ ャンルの肩書きと権威付けだけかも知れません。   ここにご紹介した雑俳のもつ明快な具象性、壁にぶち当たったような現実感に  比べて、私達の営為はどうなのか、そんなことを自問することも必要だと思った  りします。 ましてや、俳句は俗の文学です。俗とはトータルに受けとめるべき身のうち   そとの現実のことです。俗を頭で否定し、ともすれば、いわゆる「文学から文   学を作る」というマインドゲームを気取ってしまってはいませんか。    思い切って悪態をつかせていただきました。ご容赦ください。 最後に私の『雑短歌』…。 ・小便の臭ひたしかに亡き父と同じくなりぬ後厄の春 ※一九九四年五月十六日作成
      

         

         
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