・・・短歌五句四十拍仮説 ・・・
         そして六句四十八拍へ

本稿は歌誌「砂金」掲載原稿(2001年1〜3月号)を加筆・訂正したものです。
  1 ■三三七拍子は四句十六拍  運動会の応援などで、よく「三三七拍子」ということで威勢よく太鼓に 合せて手を打ちます。なるほど手を三回打つことを二度くりかえし、次い で七回打ちます。だから「三三七拍子」なのでしょう。しかし、実のとこ ろ私は昔からなにか変だなと感じていました。「拍子」を「拍」の意味に 受けとると、全くもって、「三三七拍」ではないからです。いわゆる「三 三七拍子」を音符もどきで表すと、実際は次の通りです。 (手を打つ所を○、休 んでいる所を●で表します)  《○○○●○○○●○○○○○○○●》 さらに強く打つ所を◎で表すと、おそらく  《◎○◎●◎○◎●◎○○○◎○◎●》 となります。つまり「三三七拍子」は一拍を四分音符とすると、四分の 四拍子で四小節の拍の場です。  《◎○◎●|◎○◎●|◎○○○|◎○◎●》  「三三七拍子」は三・三・七の実音によってリズムができているのでは なく、三・三・七の実音と各小節に規則的に配置された休拍との組合せ (四句十六拍)、そしてアクセントによってできあがっているわけです。  ついでに言えば、よく打上げ会などで「よおお、タン!」と行われる 「一本締め」、これは、もちろん一音一拍ではなく、四分の四拍子で表し たら、以下の通りです。 ヨ オ オ タン 《○○○●|◎●●●》  私がこれからお話する「短歌五句四十拍仮説(六句四十八拍仮説)」は、 こうした着眼のアナロジーから始まったものです。   2 ■五句三十一音だが三十一拍ではない  散文や自由詩の場合はいざしらず、私たちは短歌、とくに定型短歌を作 ろうとする時、すでに「歌いおおせる」といった故知らぬ完結感に向かっ ているようです。その予兆は一定のリズムに寄り添おうとしていないでし ょうか。そして、短歌を鑑賞する場合には、そのリズムを前提として受け とめていないでしょうか。  時枝誠記はリズムの本質を言語が表現される「源本的場面」であると主 張しました。これに倣い、私なりに短歌における源本的場面を考えてみた いと思います。  「短歌は五七五七七の三十一音による定型詩であり、五音と七音の組合 せによって短歌的リズムが生まれている…」。これがごく一般的な通説で す。しかし、本当にそうでしょうか。先入観なしに、私たちがどのように 短歌を音読しているかに耳をかたむけたら、次のような経験・事実に気づ くはずです。  まず、五音句も七音句も主観的には同じ時間にあること。具体的には同 じ拍数の内に五音・七音を受けとめているということです。 ・ひさかたの光のどけき春の日にしづごころなく花のちるらむ(紀 友則)  この和歌を声に出して読んでみてください。百人一首を読むようにして も結構です。ただし、一音一音を意識し、手を打ちながら読んでみてくだ さい。第一句「ひさかたの」。次に「ひかりのどけき」。それから「はる のひに」…。どうですか。五句ともそれぞれ手を四回(あるいは八回)打 つ拍の間に収まっていませんでしたか。一句を四回、つまり四拍 で数えた 人は「ひさかたの」の場合は、「ひさ」で一拍、「かた」で二拍、さらに 「の」で三拍目を打ったはずです。そして、四拍目は意図せずに休んで しまい、次の一拍目から第二句へと移り、同様にして「ひかりのどけき」 を四拍で読んでいないでしょうか。  つまり、五音句も七音句も同じ時間の内に収めて受けとめているのです。 これは、五音句には一定の休拍を入れ、七音句にも一定の休拍を入れてい るという事実を物語っています。七音句に休止が感じられないと言う人は、 八拍、つまり一音ごとに手を打って読んでみてください。この例歌の場合 は、次のように休拍(●で示す)が入るはずです。  《ひさかたの●●●|ひかりのどけきはるのひに●●●|しづごこ ろなく●|はなのちるらむ》。  これが私たち歌びとが体感する五句三十一音、その実「五句四十拍」の 受けとめ方ではないでしょうか。(二句・五句で間に休拍●が入っている のは、私の感じ方です)  「短歌五句三十一音」という言い方は、なるほどその通りです。しかし、 三十一拍ではありません。また、五音・七音そのものがリズムを構成して いるとは思いません。後で詳しくご説明しますが、従来の音数律論は、日 本語の等時拍という特性を言いながら、音数イコール拍数という固定観念 に囚われていたため、この事実から「耳をそらした」のだと思います。短 歌という形式のもつリズムには五句のつらなりにおいて、五音句・七音句 それぞれにある一定の休止がまず大きく作用していると考えられないでし ょうか。  勿論、実際の句には微妙な間(ま)があり、単純にメトロノーム通りで はありません。とはいえ、私たちは先験的な拍数の場で、休拍の向うに思 念を投げかけるごとく五音句・七音句を紡いでいます。  私は、その五音・七音を構成する意味単位である小節、つまり〔ひさか たの(5)〕〔ひかり(3)のどけき(4)〕〔はるの(3)日に(2)〕 といった小節が各句ごとに休拍と関わる、その組合せからまずリズムが生 まれていると考えます。    3 ■岡井隆が直感した「虚の拍」「等時的リズム」 「短歌五句三十一音」についての従来の典型的な考え方は以下の通りで す。安田章生は「現代短歌手帖(創元社)」の中で、「短歌は、五・七・ 五・七・七という五句三十一音を基本音数としている定型詩である」と規 定します。そして「日本の詩において古来、もっぱらおこなわれてきた韻 律は、音数律である」「日本語の音数律の基本は、五音および七 音であ るが、これは日本語に五音および七音が多いということ、(中略)さらに、 五・七音は長短の差が少なく調和的で温雅な韻律感を与え、その上、奇数 であることから調和のなかに鋭い韻律感をも出し得るということのためで あろう」「短歌形式も、このような五音七音を基本音数律として成立して いるわけである」と説明しています。  ここには拍・休拍、五音七音内の小節への視点がありません。試みに次 の短歌を五音七音に忠実に休拍なく読んでみてください。 ・みづからの光のごとき明るさをささげて咲けりくれなゐの薔薇                           (佐藤佐太郎)  実際は休拍なしでは読めません。読んだとしてもリズムは感じられませ ん。冒頭にご紹介した「三三七拍子」と同じことです。この事実から耳を 塞いだ五七音数律の通説は、はなはだ疑問です。もちろん、これは朗誦を 前提としてのことです。字面のボリウムを目で追う黙読の次元の話ではあ りません。  次に、岡井隆の着目をご紹介します。彼は「現代短歌入門(大和書房)」 において、短歌形式に関し、多少の字余り・字足らずを肯定する土屋文明 の立場と、五句三十一音を遵守する佐藤佐太郎の純粋短歌の立場を比較し て、「どちらを正統と認めるかといえば、佐太郎をとりたい」と言いつつ、 自らの作歌経験・鑑賞経験から、以下のように柔軟で貴重な着想を吐露し ています。  例えば、塚本邦雄の第一句を七音とする作品「王も王妃も生まざりしか ばたそがれの浴場に白き老婆は游ぐ」などの傾向に対して、「歌はこれを 読むとき、第一句のあとで休止を置き、二・三句をつづけて第三句のあと でまた休止を置く。経験上、そういうよみ方をするのが多いが、これを分 析してみると、五拍のあとに必ず休止をおいています。虚の拍と呼んでも いいでしょう。《○○○○○●|○○○○○○○|○○○○○●|○○○ ○○○○|○○○○○○○》。●のところに呼吸運動上の予備力がある。 これを実の拍でうずめて、第一句と第二句を接続して、上句を一気によみ 下すことによってある下降力──速度感を得ようとすることは、考えられ る。ま あ、その理由がなんであるにせよ、そして、そういう音数上の多 少のヴァリエーションが定着するかに見える」と、虚の拍(休拍)の存在 を持ち出して塚本の第一句七音を肯定しようとしています。また、別のと ころで(短詩型文学論・紀伊国屋書店)、「五・七・五・七・七の句わけ は、明らかな長短リズムというよりは、等時的リズムを五回反復したのに ちかいのではないか」という鋭い直感も語っています。 この「虚の拍」と句の「等時的リズム」をさらに展開すれば、我田引水 ながら私の「五句四十拍仮説」に著しく近づきます。塚本の例歌を次のよ うに「分析」できます。  《おうもおうひも●|うまざりしかば●|たそがれの●●●|よくじょ  うにしろきろうばはおよぐ●》(●は休拍)  しかし、岡井は拍と音を同一視する固定観念から離脱しませんでした。 このため、「定型とは、つねに超日常的な不自然な規約にほかなりません。 (中略)短歌の五拍七拍のこの特殊な組み合わせ方は、不自然と呼ぶより ほかないのではないでしょうか」と後退します。(「短歌の五拍七拍のこ の特殊な組み合わせ方」という言い方に拍と音についての混同が見える)。 そして「日常語の世界から飛躍したところに短歌の世界はある」と癇癪を 起こします。  岡井にとって「日常語」は、短歌の「超日常的な不自然な規約」の反対 概念のようであり、「日常語」には「自然な規約」があるごときです。し かし、私は短歌を不自然だと感じたことはありません。ここのところ、新 短歌の方々の言う「現代語」「口語発想」と関連してきますが、この件は 稿を新たにします。            4 ■佐藤佐太郎が殉じるリズム  日本語の音数律がなぜ五音・七音に集約されたのかについては諸説があ ります。いまは短歌表現に限り、私たちが五音・七音にどのように関わっ ているのかを検証してみます。 ・みづからの光のごとき明るさをささげて咲けりくれなゐの薔薇                           (佐藤佐太郎)  佐太郎は「くれなゐの薔薇」のたたずまいに直面し「いのち」の気配に 触れています。その戦きが全てです。この作品の言葉(三十一音)は、そ れをあくまでも歌として囲い込むための表現です。つまり、五句四十拍と いう基本の秩序の中で五音・七音の言葉を周旋していると考えるわけです。  例歌の五音・七音を意味単位の小節に細分化し、五句四十拍で図示する と、以下のようになります。 は実音/拍、●は休拍) みづからの ひかりのごとき  あかるさを    ささげてさ ●●●●●●●●|●●●●●●●●|●●●●●●●●|●●●●  けり  くれなゐのばら ●●●|●●●●●●● これを拍数値で表すと、〔5・B|4・3・@|5・B|4・3・@|5 ・2・@〕となります。 (○囲み数字は休拍の数値)  第一句と第三句が同じ構成、第二句と第四句も同じ構成で、第五句だけが 違っています。一句〔5・B〕拍はゆったりとしており、「みづからの」 「明るさを」というおもむろな叙述の気息にふさわしいと考えられます。つ まり、〔5〕の小節は減速気味に動いてBの休拍の中へ静まり、次句との連 綿に余裕をもたせています。  また、一句〔4・3・@〕拍は、「ひかりのごとき」「ささげてさけり」 といった穏やかな断定の気息にそぐうものであり、@の休拍を伴って加速気 味に次の句へつながっています。例えば第四句を「ささげ咲きたり」と〔3 ・@・4〕拍としたら気息のニュアンスが微妙に変わってしまいます。「さ さげ」では断定に緊張が生まれます。また「ささげ咲きたり(3・@・4)」 そのものに終止感があり、結句との連続性を弛緩させないでしょうか。結句 「くれなゐのばら」〔5・2・@〕拍は深い完結感を持っています。 このように小節の組合せは、その意味とともに一句の気息の気配を創り、 歌(五句)のリズムを創ります。佐太郎の純粋短歌は、この絶妙な計らいに 殉じるものだと思います。 これに関して、菅谷規矩雄の優れた考察があります。彼は「詩的リズム (大和書房)」の中で、「拍の運動法則たる等時的反復と、それに対する (句の)非等時的傾向性との相互作用が、表現=構造としてのリズムをうみ だす」と語っています。ここで言う「拍の等時的反復」とは、五句四十拍の 場のことであり、「非等時的傾向性」とは前述の小節の組合せによる気息の 動きだとみなせます。彼は、非等時的傾向性を持つ句がリズム単位として機 能することを「律化」と呼び、そのダイナミズムを「句の加速・減速」とい う仮定に求めています。 事実、「ささげて咲けり」に加速感、「ささげ咲きたり」には減速感があ ります。これは小節だけでなく、単語として認識し音読する音節の音数の組 合せと休拍との関わり方にその理由があると思います。「ささげて咲けり」 の音節は〔ささげ/て/さけ/り/●〕(3・・2・・@〕で1音数が 多く含まれ、朗誦が弾みがちです。一方、「ささげ咲きた り」の場合は、 〔ささげ/●/さき/たり(3・@・〕で、2音数が続き、朗誦に安 定感があります。この二つの句の音節を意識しながら、音読してみてくださ い。さらに一句の速度感の違いがきわだつはずです。  おそらく、こうした句の速度感とは、作者の表現意識そのものに深く関わ っているものだと思います。 短歌のリズムは、音数・拍数、小節の組合せ以外にも、同じ語の反復、母 音の配置、拗音・促音の特性と関係しています。これらはアクセントの要因 として機能するものと考えられますが、今はここに立ち入ることはさしひか え、稿を進めます。           5 ■短歌は五句でなく六句構成ではないか 「五句三十一音」と言いならす慣例に対するものとして、私はこれまで 「五句四十拍」という言い方をとりあえずしてきました。しかし、荒唐無稽 な着想かも知れませんが、短歌は本当は六句構成なのではないかと思います。 つまり、第五句まででは短歌という歌の場、ひとまとまりのリズム場面は完 結しないのではないかということなのです。その未完結を補うものとして、 言わば「虚句」(第六句)があると想定します。 この歌をもう一度、朗誦してみます。 ・みづからの光のごとき明るさをささげて咲けりくれなゐの薔薇 「くれないゐの薔薇」のたたずまいを心象に浮かべ、この歌の余韻に浸ろ うとすると、第五句を朗誦した後も沈黙のリズムが読み手の意識にまだ続い ていないでしょうか。  言い換えれば、歌のリズムの場を次のように受け止めるからこそ、歌の完 結感が成就するのではないでしょうか。  《みづからの●●●|ひかりのごとき●|あかるさを●●●|ささげてさ  けり●|くれないゐのばら●|●●●●●●●●》 一拍を八分音符(一音=八分音符)とすると、短歌は四分の二拍子で、全 体は十二小節のかたまりとみなすことができます。そこで「短歌六句四十八 拍」の基本形は以下のように想定することができます。 《○○○○|○●●●|○○○○|○○○●|○○○○|○●●●|○○  ○○|○○○●|○○○○|○○○●|●●●●|●●●●》  (○は実音/拍、●は休拍)  ぜひ、あなたの愛する和歌・短歌を朗誦してみてください。その歌の世界 の響きは、五句では終わらないはずです。「歌の余韻」とは、観念的・恣意 的なものではなく、耳の内の生理にあるものではないでしょうか。  なお、洋楽の場合、たいていは八小節または十六小節で一つの楽章が構成 されます。しかし、十二小節で完結する楽章というのは、日本人にとって不 自然ではないようです。ちなみに、日本の伝承童謡である毛毬唄や遊戯唄な どの中には、十二小節のものが多くあります。「山寺の和尚さん」「かごめ かごめ」がそうです。また、明治になって作曲された国歌「君が代」も十二 小節です。(以前から江戸城の大奥で正月に歌われていたふし回しを採譜し たという説もあります)。 短歌は五句三十一音という音数律の「定型詩」というよりも、日本語の等 時拍の特性に基づき、五音句には三拍の休拍、七音句には一拍の休拍を伴い、 実際は五句四十拍で構成されており、さらに虚句を加えて完結する「六句四 十八拍」の「定拍詩」であるとみなすことができると考えるわけです。 なお、日本語の等時拍という考え方は、一音=一拍を前提としたものです (これは中国語、漢字が一つの字で一音節の発音・一つの意味を持つ『漢字 の形音義』の性質を援用したおおまかな考え方で、私たちの「やまと言葉」 にそのままあてはまるかどうかは、疑問に思うところがあります)。ともあ れ、日本語の等時拍が通じるのは、文語の場合、しかも朗誦の場合だけかも 知れません。冗漫な口語でいわゆる「現代仮名遣い」という矛盾の多い表記 をした短歌を「黙読」する場合は、もはや音と拍の微妙な緊張関係を感じる すべがないと思います。  翻って思えば、私たちは短歌に限らず「文芸」を口承によって受け取り、 暗唱するという習慣から離れて久しい。つまり、活字となった表記を黙読す るという仕方で「文芸」を味わうことに慣れっこになっています。これが、 音と拍を同一視することの一因になっているとも考えられます。また、私た ちは明治維新と太平洋戦争敗戦という二度にわたるやみくもな自己否定の契 機を通し、日本人が培ってきた多くの精神財とともに、日本語のもつ多くの 財産をなくしてきています。簡潔な漢詩文しかり、豊かな語彙しかり。絶妙 に意識の襞を表しえる助詞・助動詞しかり。そしてなによりも言葉の響きや リズムに対する語感も大きな失せ物だと思います。とはいえ、往年の心と暮 らしが失せた今、むやみにその痛手を問うのはせんなきことです。ただ、短 歌のリズムを考える場合は、かつての日本人が朗誦するという意識の衝拍に おいて、文語文を発語したとき、その発語の地平に響いていたリズム、その 源本は等時拍であったはずというのが、私の仮説の大前提なのです。


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