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詩歌鑑賞H


異化された身めぐり●山下和夫歌集『鼓 TSUZUMI』から



  山下和夫★歌誌「HANI(埴)」編集・発行人
 山下和夫さま 拝啓 秋も深まってまいりました。  山下さまにおかれては、ご清祥のことと拝察し、心からお慶び申し上げ ます。  過日は、貴重な御歌集「鼓 TSUZUMI」をご恵与くださり、あり がとうございました。感想を申し述べるのが遅くなり、申し訳ございませ ん。「現代短歌作品解析」では、短歌表現の「言語価値」についての優れ たご高察に感銘を受けるばかりでしたが、山下さまのお歌を拝読したのは 初めてでございました。    独特な方法意識にもとづいて、彼岸と此岸を行き来するような戦きにみ ちた世界を見せてくださるかと思えば、少年のような純粋な抒情、あまり にも人なつかしい底深い詠嘆の作品もございまして、一首を読むたびに遠 い目になったり、心がしんとしたり、涙ぐましくなったりしながら拝読さ せていただきました。まとまった論旨を申し述べるには力不足の私ですの で、思いつくままに感想を書かせていただくことにいたします。  「現代短歌作品解析」の中で「異化する」というキーワードが何度か示 されていて、どういうことなのだろうと、ずっと気になっていました。そ れがこのたびの御歌集のあとがきで明快に敷衍しておられまして、私なり に合点がいったような思いです。「実存と不在の両者の間には、それをつ なぐ分厚いハーフな詩的領域がある」として、その詩的領域に視点を仮構 することで三者の混沌に入り込む。そのとき見えてくるのは、実存と不在 の同時発現というべき全体、その消息・気配なのでしょうか。山下さまの 詩論における実存とは、生、形あるもの・いわゆる現実・事の推移などで あり、不在とは、死、形なきもの・観念・彼岸の消息などと思いますが、 「異化する」というのは、あえて持ち出した実存と不在という二元論を超 えたところのものを幻出させることを意味していると、拝察しています。 ・ ここにいぬ者たちのため ここにいぬ者たちと鼓打ちてそうろう ・ 今生きて歩みておりぬ死後もまたいま生きて歩みいると思うや ・ 在りて無く無くて在るかげま白なる雪に積もりてゆく影の雪 ・ 水仙の黄の花一つわれに向き咲きおり われも黄の花に向く  これらの作品は、その視点、方法意識をあらわにされたものと思います。 実存における推移は、そのまま不在の次元における推移と同時進行してい るのではといった戦きでしょうか。こうした不穏な「全体把握の眼差し」 が具象に注がれた際、次のような作品を生むのですね。 ・ 対岸へとどかざりける礫らはいま海溝をくだりつつあらん ・ 来る人を連翹は黄に照らすゆえ連翹の黄はうすれゆくなり ・ 今日をまだ死にまみえざるものたちへ終電車止まり扉開けたり ・ 止まりたる時計を前に座りたればしずかにわれの鼓動をはじむ ・ 長塀を揺れて脱けたるわれの影ふたたびこの世の土歩みいる ・ 風よりもわずかに早くどの花も枝離れて自が行き処に鎮む ・ 水のにおいこもる春の日背後より呼び止められき 人と違いて  これが山下さまの言われる「対象が異化された世界」なのだと思います。 対象を眼前にしながら、「詩的領域」から不在をからめとりつつ見る。こ うして表現され開示された世界は、心象でも幻想でも観念の形象化でもな い、いまひとつの詩の現実なのですね。「詩」の訪れの秘密を明かすもの として、感銘をうけます。おそらく、山下さまのご高察は、私どもに理解 しやすいように論理として示されたものであり、ほんとうは、山下さまの 詩魂はこうした方法意識よりも先に詩の現実のなかへ遊離しておられる のではと思ったりします。分析とか解釈・判断といった思考の次元ではな く、さらに奥深い意識、おそらく「観照」という全面的な感応の次元だと 思います。    また、「少年のような純粋な抒情」「あまりに人なつかしい底ふかい詠 嘆」の作品群がございます。 ・ ひいひょろと草の根の虫遠空に鳴きいし 少年たりし いまなお ・ フルートを買いたく思う 少年の日より幾たび 虹たちてまた ・ 人ごとにめぐりに風をまといいて影かさねあうときやわらかき ・ ありへたる言葉を交わすのみにしてまた忘れゆく日日のやさしも ・ ひとがひとを呼びいる声の麗にて林はさみどりの真空の壷 ・ 忘れいしごとくに忘れられているわれのほとりに梅咲いている 語弊を怖れずに申し上げさせていただくと、これらはいわゆる境涯を詠 嘆する感傷的な歌の様相を呈しながらも、人生の苦さや重さを濾過した慈 味をたたえていて、読む者に人なつかしさをもたらし、癒しを与えてくだ さるように思います。「ありへたる言葉」「忘れいしごとくに忘れられて いる」といった歌句がかかえる思いは深くきびしく、そして優しさにみち ています。先ほど「全体把握の眼差し」といった言い方をさせていただき ましたが、この眼差しは人生の機微にも透徹しているのだと思います。肯 定も否定もしない。執着も断念もしない。ただ観照しているのだと思いま す。そこに「虹が立ち」「日々が優しく」「梅が咲いている」のですね。  わけのわからぬことを書きなぐってしまいました。妄言をお許しくださ い。ほんとうに素晴らしい御歌集を拝読させていただき、ありがとうござ いました。常々私は「自己表現」と「自我の表明」とは違うと考えていま すが、山下さまの作品には不透明な自我が感じられず、潔い思いの深さに 感じ入っております。   末筆ながら、くれぐれも御身御大切にとお祈りいたします。                               敬具        平成二十一年十一月二十日                              藤本朋世

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