歌誌「砂金」の大崎靖子さまが歌集『五月の蝶』を出版されました。毎月、
誌上でも作品を拝読していましたが、こうして一冊の歌集に纂められますと、
交響楽の楽章のごとく、作品の一首一首が新たな意味合いと表情をもってきま
す。そして「大崎靖子短歌の世界」の全体と部分を満喫する楽しみを与えてく
ださいます。僭越ながら、若輩の身を顧みず、少しく歌集『五月の蝶』を鑑賞
いたします。(以下、敬称を略します)
1
作者は戦前からの長い歌歴を持ち、現在は岡部桂一郎の「風の会」及び「砂
金」に籍をおいて作品を発表されています。その彼女が歌集の版行を思い立っ
たのは、「あとがき」に記されているように、平成九年に乳癌と胆嚢の手術を
うけたことが契機とのこと。その大患の恐怖と苦痛の中から湧きあがった「も
う一度元気になりたい」「もう暫く生きたい」という気持ち、そのエネルギー
に自ら驚きつつ、そうした己れの心のよすがとして改めて短歌に真向かい、歌
集づくりに着手したと述懐されています。
この間の作者の心の消息は、次のような作品からうかがうことができます。
・カーテンの白い囲ひの内側に刻きざみつつわれ横たはる
・わが街の家並珍しきごとく見ゆ今日生きのびてバスに揺らるる
・残すべき歌を思へば茫然と空梅雨の午後紫陽花の花
こうしたご体験の切実さは拝察するに余りありますが、それによって、歌び
ととしてのすこやかさはなんら損なわれることはなく、むしろ「詩」への視座
をさらにたしかなものとすることに作用したと思われてなりません。
・カーテンの白い囲ひの内側に刻きざみつつわれ横たはる
この歌の空間にきざまれている時間は、日常を横に流れる時間ではなく、日
常と次元を異にする世界を垂直に落ちる、あるいは上昇する時間のようです。
この作品は病いによって「カーテンの白い囲ひの内側」に置き去りにされたわ
が身の絶望を見据えているわけですが、同時に作者は別次元のなにごとかに耳
を澄ましているかのごときです。
2
ちなみに、蕪村に「かぎりある命のひまや秋のくれ」の一句があります。
この句意は、なりわいの瑣事にあけくれる日常の中で、ふと自らの来し方、
あるいは人生そのものの「かぎりある在り様」に対して郷愁とも悔恨ともつか
ぬ思いにかられたということでしょう。蕪村はこうした気づきの機会を「命の
ひま」と表現したのですが、これは心の余暇といったものではなく、むしろ、
日常の主体たる自己がゆくりなく囚われる、一種の覚醒へとつながる間隙(ひ
ま)だと考えられます。そこでは、いわば「時のうち」ではなく「時のそと」
のいのちの気づきの世界が開示されるのではないでしょうか。
大崎靖子の歌の特徴は、まずもってこうした「時のそと」、見えざる世界の
いのちの気配を孕んでいることにあります。「見えざる世界」とは、人間のあ
ざとい理知の次元を超え、にもかかわらず常に此処に在る時空を指します。
・ざはざはとふいに賑ふ梢あり枝をよぎりてゆきし風あり
・ゆるやかに日脚の伸ぶる日のひかり手術後の身を包むごと射す
・手さぐりの闇の向かうの仄ぬくし けさ白梅の一樹の咲けば
これらの作品に通底しているのは、ひたすらに受け身を貫く「明け渡し」の
姿勢です。その姿勢にあっては「よぎりてゆきし風」も「日のひかり」も「白
梅」も己れの計らいとは無関係であり、それでいて作品においては、深い次元
で己れのいのちと関わっているという戦き・含羞を孕んでいます。
・手さぐりの闇の向かうの仄ぬくし けさ白梅の一樹の咲けば
就中、この作品はリアリティに根ざしつつ、言葉が自立した詩の世界へ離陸
しており、見事だと思います。闇の向うの見えざるひかりのぬくみを感じるの
は「けさ白梅の一樹の咲」いたゆえかも知れません。しかし、そのような事態
に覚醒しているのは誰か。おそらく「命のひま」の奥に息づく作者ならざる
「個」なのだと思います。この「個」こそが歌の主体ではないでしょうか。
3
本歌集には、亡き父・亡き母が登場する作品が少なからず入っています。
・一面に虎杖咲ける野辺を過ぎ丈高き亡父にわれ逢ひにゆく
・豆を煮るさびしきことをわがすれば亡き母のこゑ不意に近づく
・月光のさしゐる庭に開きたる花の如けむよみぢの母は
・ひつそりとはぜの木の葉の色づけばひとり越路を亡き父の行く
私たちは、こうした作品を実際にはありえないこととしつつ「心象詠」とい
う括弧付きで忖度します。しかし、極端に言えば、歌は徹頭徹尾「心象詠」で
しかないと私は考えます。歌において現実と言い、美と言っても、それらは作
者を離れて存在しません。このことに関し、敬愛する藤川東一郎画伯は最近の
お手紙で次のように諭してくださいました。「美は 美と感じ感動する者に属
する」「自らの意識を正した途端 美が飛び込んでくる」「根源的なものは手
に触れえない遠くにあるのではなく この世の間 リアリティの内にこそ 皆
在るのです」「リアリティから外れたものは 人間には感知できません」。
亡き父・亡き母の姿は、作者にとってリアリティだと考えます。ただし、こ
の世界は「命のひま」の奥に息づく歌の主体たる「個」の見たものなのです。
4
作者の方法意識、「詩」に探りを入れる意識のベクトルの傾向として、「数
え上げる」ということが見受けられます。例を挙げてみます。
・“ダイカグラ”といふ名の椿咲きにけり五歩ゆきてある庭のあたりに
・梅雨明けて三日目の夏逆光にのうぜんかづら花黒く咲く
・歳月を経し俎や傷無数あらはとなりぬ三月の陽に
・梅の実を今年も干して十日経ぬあるなしの風 秋立ちにけり
なぜ「五歩ゆきてある庭」なのか、なぜ「梅雨明けて三日目の夏」なのか、
なぜ「三月の陽に」なのか、なぜ「梅の実を今年も干して十日経ぬ」なのか。
これらの「数」は恣意のようでありながら、ゆるぎない必然と思わせるなにか
があります。先に述べた「ひたすらに受け身を貫く『明け渡し』の姿勢」にお
いて捉えた、あるいは恩寵のごとく閃いたリアリティの推移の符牒としてそう
した「数」が出てきているのではないでしょうか。
・梅の実を今年も干して十日経ぬあるなしの風 秋立ちにけり
今年も厨仕事の一つとして梅の実を干した。その「十日経ぬ」日に秋風が立
ち始めた。その何気ない推移の奥に作者は寂しさとも癒しともつかぬ「いのち
の流れ」を直感しているのです。
5
本歌集には、五月を中心とした春の作品が多いことに気づきます。
・生みたての鶏卵ひとつ手のひらに春呆然と立ちてわがゐる
・繁りたる葉は藤棚を覆ひつつ五月の鳩は卵を抱けり
作者にとっての五月という春の季節は、そのいのち盛んなまぶしさの中にな
にか冷え冷えとした寂しさを感じるもののようです。「生みたての鶏卵」「卵
を抱く五月の鳩」は、新たないのちをこの世に投げ出すものであり、それを育
む春の光もかがやいているはず。にもかかわらず、これらの作品はどこかよる
べない負の気配をかもしています。それはなぜか。
・俎の白く乾きし面に射す春の陽ざしは移りゆくなり
・まぎれなき老いと思へば晴天の五月はさびし 梅太りゆく
「白く乾きし面」の俎とは、「まぎれなく老い」し己れの象徴と読み取れま
す。かかる己れに対して「春の陽ざしは移りゆき」、「梅太りゆく」ことに作
者は覚めた視線を送っているわけですが、「さびし」と言いつつ、そこには怨
みや悔いのニュアンスがないことに注目しなければなりません。すでにして、
作者は今日の生も死もわが内に在ることに気づかれているからではないでしょ
うか。いのちの寂しさの根源に触れることによって逆に癒されるという、いの
ちの実相、その逆説を受入れられているのではないでしょうか。
・名の知らぬ花に寄りゆくわが心五月の蝶を一つ放ちぬ
ここに至って歌集名とされた「五月の蝶」の意味を尋ねることができそうで
す。「名の知らぬ花」とはもはや名指す必要のない「いのちの彩り」そのもの
であり、その全体に寄りゆく「個」の思念、すなわち歌びととしての一回性の
いのちの発露というべき作歌の思いを「五月の蝶」に託したのだと思います。
すなわち、「五月の蝶」は寂しさの根源へと舞いゆく作者自身です。
そして往きて還る作者だからこそ、ご主人とのかけがえなき「いま此処」が
かくも穏やかなのでしょう。
・もの忘れ互に言ひて老いづけばあしたゆふべの愉し折ふし
・頬杖の夫を待たせておもむろに昼の鏡の中に入りをり
・兵たりし歳月めぐる八月を夫夕映て草を刈りをり
かくして一日一日を花ひらくいのち、内なる仏性に合掌いたします。
・びつしりと蕾ふくらむ桃の木に向かひて歩むわが心かな
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