詩歌鑑賞F


若きいのちの旗●塩谷いさむ歌集『戦野茫々』から



                                 塩谷いさむ★歌誌「砂金」同人
 拝啓 塩谷さまにはご健勝のことと拝察し、心からお慶び申 し上げます。 さて、過日は貴重な御歌集『戦野茫々』を賜り、ありがとう ございました。  さて、御歌集『戦野茫々』は、「いくさの中の青春」を過ご された塩谷さまの、あまりにも重く切実な思いにあふれたもの であり、戦後生まれの私などは軽々しく感想を申し述べること ができないようにも思いました。 ・二十五歳のいのち思へり息をつめ敵前渡河を待ちゐし 静寂 ・とほき日の靴音聞こゆ秋の日の樹間騒がす雨音のなか ・夏草の深き茂みの中に在るはちがつ匂ふ硝煙にほふ ・よぎりゆく歓呼の声と旗の波 雨音しげき夜を覚めゐる ・木枯らしにそびら押されて渡る橋征きし彼の日と同じ瀬の音 いまもなお「いくさ」の内にあった青春の日々が息づいてお られるのですね。あの戦争についての評価はさまざまですが、 実際に体験した人でないと絶対にわからないことがありますし、 そうした事実の集積を捨象した上での戦後の歴史認識・国家認 識の軽々しさには、鼻しらむ思いがいたします。  生意気を申し上げ、申しわけございません。 ・華やぐをかなしく思ひ征きし日の若きいのちの旗持ちつづく  「若きいのちの旗」を持ち続けられることの孤独、その苦さ に胸がつまりそうになります。 ・うなづきて話し聞く友多くなり戦友会に軍歌唄はず ・仏にも鬼にもなれず冷ゆる耳 街を流れる川の音聞く ・つづまりは独りとおもふ十六夜の月を映してひかる街川 ・「人間を見過ぎました」と言ふ人と初冬の茶房に向かひあっ  てる 一体、この国はどうなるのだろうと暗澹とすることばかりの 昨今ですが、私はその原因の一つは、戦後の浅はかな『民主主 義』的な風潮、合理主義・機能主義一辺倒な風潮の功罪は言う までもなく、なによりも日本人が自らの過去と断絶したこと、 諸々の精神的な所産と断絶したことにあると思っております。 自らの歴史・文化に正当に根を下ろさない民族など、日本以外 にないのかも知れません。ご高承の通り、国語改革に端的に見 られる粗雑な国語意識はその際たるものだと思っております。 閑話休題。こうした時代に塩谷さまの御歌集は、私どもが忘 れつつあることをたしかに伝えてくださるものと存じます。 ・たそがれの野の道急ぐかたはらに反逆のごとく寒木瓜の咲く 「反逆のごとく咲く寒木瓜」、これは塩谷さまの毅然たる変 わらぬ意志の象徴のように感じます。 ・俘虜といふ履歴を持てる自分史を照らす没り陽はいまだ沈まず もちろん、こうした背景・意味とは別に、作品としての見事 さにも敬服しております。とくに、上記抄録作品の他、以下の ような作品に感銘いたしました。 ・ひかりあふ波にあひたり別れ来てなほ鳴りやまぬ瀬戸の潮騒 ・回送の電車の中の吊り革が自在に揺れてゆれつづけてる ・川へだつ向こうのくぼみうす昏く異界の風が通りすぎてる ・音立つるごとくに芽吹く裸木のめぐりはなべて透明の青 ・春の陽のあまねく射せば微かなるしあわせあるを疑はずをり 塩谷さまのご健康と今後ますますのご活躍をお祈り申し上げ ます。ありがとうございました。 平成十三年五月三日                        藤本朋世

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