詩歌鑑賞E


魂の故郷を訪ねる「はるけき旅」●井上次男歌集『旅立ち』から



                                    井上次男★歌誌「砂金」同人
井上次男歌集『旅立ち』は、その大半が東アジア・西アジア への紀行を題材にした作品で占められています。作者のいわゆ る広義の西域の史跡・文化についての博識は作品からも充分に うかがうことができ、また、西域に興味を持つ読者には垂涎の 世界が展開されています。 ・礫漠の凹地の底に死海見ゆ地球の傷口かくろぐろ沈む ・最澄が教義学びし小刹杉生ふなだりにしづもり立てり ・流砂の道没り日かがよひ砂風に張騫がゆく玄奘がゆく  氏の歌集を一読して、とりわけ印象に残ったのは「朱」「あ かあか」「赤」という色の独自のニユアンスでした。 ・ソクドびとの最後の都邑崩ゆる丘群れ生ふ芥子の朱雨に濡る ・丈高き土塀を越えて柘榴の実穹わたる日にあかあかと映ゆ ・炎熱のくにの朝明けを四方の色かへつつ昇る寸刻の赤  作者が端的に受けとめた「異郷の色」は、こうした鮮烈な 「朱」「赤」であり、実際に「乾燥ユーラシア」にはそれ以外 に色はないと思えるほどに鮮烈なリアリティを感じさせます。 その色は、「冥府より明け来るに似て黒砂のかわくカラクム砂 漠しらじら」という砂漠の地において、その色は、神と共に悠 久の時空にあるごとき人々の暮らしに対する畏怖と共感から捉 えられた色なのだと思います。雨に濡れる芥子の朱、蒼穹に映 える柘榴の実、朝明けの日輪、これらの色は、非情で即物的な がら、まさに原初のいのちの色なのかも知れません。  作者のこうした眼差しは、西域の酷薄な地に暮らす伎楽面の ような顔つきの人々、その静謐な在り様を捉えます。それは自 らの心の居住まいを質すかのごとくです。 ・まれびとをチャドルの瞳おほらかに見つめてゐるに気づき戸  惑ふ  ちなみに、最終章に次の作品があります。 ・死を見詰むる場面に遇はで復員すその後の生のあくまで脆し  ここで吐露されている「その後の生の脆さ」を埋めるものを 作者は西域に希求されているのではないでしょうか。氏にとっ て、西域との出会いは運命的な必然なのだと思います。  実のところ、私は異国の風物を歌うことには、大きな困難が あると思っています。偏狭な考え方ですが、言葉は母国の風土 や生活と、文化の伝承と密着しており、例えば日本語で異国の 風物を写生したとしても、翻訳詩と同じように現実とは別の趣 のものとなるのではと思うわけです。しかし、この歌集にはそ の違和感が感じられませんでした。西域と日本に通底するもの があるからでしょうか。  本歌集の圧巻は、「乾く国」の章に収められている次のよう な作品です。 ・風紋の波頭は流れわがあとを消してしまへりつかのまの生 ・冥暗と夜空の藍とふたいろの無限球体に消えさうなわれ ・星のほか光の見えぬ闇にゐて砂の無臭の浮力にひたる ・龕壁の砂のこぼるる音すなりこのしづけさや 無量無壽  おそらく、かつての覚醒者(ブッダ)たちが感じたであろう 「空(くう)」の戦きに満ちたこれらの作品に敬意を表します。  氏にとって西域は異郷ではなく、魂の故郷なのかも知れませ ん。それゆゑに「旅立ち」という歌集名を採用されたのだと思 います。 ・石室に残りたる朱鮮やけしはるけき旅は今きはまりぬ

             ※歌誌「砂金」2001.5月号掲載
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