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‹ことのは›は詩魂の宿り●岡田衣代歌集『秋の言の葉』



                                                   岡田衣代★歌誌「桜狩」同人

  不意をつかれた思いがした。「秋の言の葉」という歌集のタイトルにである。「言
の葉」は、古代、和歌などの言語表現を指す雅語であった。これがいささかのけれんもなく掲げられていることに、ゆかしさを覚えるとともに、次のような牽強 付会の夢想に誘われたのである。「ことば」は言(こと)と端(は)の複合語である。古代では、ことばは実体と切離せない関係に捉えられており、「言は事で ある」と考えられていた。また、対象や事態を事と認識するか、物として認識するかに、さほど明確な区分はなかった。「言は事である」における事は、物を包 含しているとみなせよう。となると、「言の葉」とは、事や物の端、そのあらわな輪郭を縁取るもの、つまり存在の端的なかたちを把握すること自体のように思 う。さらに「言の葉」には、出来合いの概念・観念としてのことばではなく、その都度、新しく存在とかかわり生起するものといったいのちを感じる。私たち歌 びとがよすがとするのは、この意味での「言の葉」であろう。以下、こうした「言の葉」が花ひらく本歌集をひもとくことにする。

・少年は棒のごときを身に詰めてひかりの中を疾走したり 
・釘うてば突如きざせる哀しみのごとくに曲り打ちこまれゆく
・労働をとかれし軍手がお互いをいたわるかたちに干される窓辺

 これらの作品に見られる比喩は、表現する側から意味を付与したというよりも、むしろ対象そのものから開示された新しいい意味を物語っている。作者の解釈や作者との関係性を持ちこまずに、対象そのままの姿(事と物のありようの典型)を見定めているのである。
 こうした受容性、観照の姿勢はどこから来るのだろう。
・頭上にはタップ踊れる雲がいて目眩むほどに明るき日曜
・水引がほそぼそ首振るところより今朝の一歩をふみ出してゆく
・ささやかな風がかなでる春の音聞きとめてより耳やわらかし

 これらの掲出歌に見られるように、作者の心奥にはおそらく天真爛漫な幼児のような意識の野原が広がっているのだと思う。存在への親しみともいうべきもの。ここでは自己と自然は対立しておらず、むしろ自然と融合している。タップを踊る雲の快活さは自身の快活さであり、水引の朝のあいさつは自身へのあいさつであり、春の音はわが身の音である。
 これは対象を部分ではなく、全体として把握するということであろう。分析・解釈する者は外側から部分を見ている。一方、全体に気づいている者はその内側にいる。「言の葉」はこうした全体にかかわっていると思う。そうした眼差しは、次のような「事と物」をも捉えてしまう。

・雑草の根を断たんとし鍬ふるう背にじんじんと刻をとまらせ
 雑草のいのちの根を断とうとする、その暴力を自覚しつつ、背中に「じんじんとたゆたう時間」を感じているという。なんという底深いリアリティであろう。作者は天地の全体につらなっているのである。
・皿の上のスプーン一つ寒々と暗渠のようなうつはらみいる 
 なにげない日用品のスプーンにも「暗渠のようなうつ」を察知する。概念による人間本位の意味づけをしないとき、スプーンの「言(物)の端」があらわになるのだろう。このとき、スプーンという具体は、作者の日常の抽象でもある。     
・樹の影に反身かくせる木の椅子がまた輝きをとりもどす夕
 残照のひととき、樹の影に在った木の椅子が、人間にとっての有意味の「椅子」というレッテルを拒否して、「輝きをとりもどす」というのである。これは幻想でも詩想でもない。
  ところで、作者が作品上で「ことば」という語を用いるとき実際は「言の葉」を意味している。以下、「ことば」を歌った作品を鑑賞したい。それは作者ならではの「言の葉」のはたらき、そして「詩」が訪れる消息をうかがうことでもある。
・狐雨まだやまざればこんこんとわれに生れこよ鋭きことば
 狐雨すなわち時雨が過ぎるひとときは、奇妙なまでの明るさに充ち、ゆえ知らぬ予感が兆す。その閃きをとらえるものが作者の「言の葉」なのだ。こんこんは、水の湧きでる様子と狐の鳴き声を兼ねていて、さらに怪しい気配をかもしている。
・鳥もまた淋しきものよ きらきらとことばのように羽ふるわせて
 鳥は痕跡をとどめずに空を翔ける。その身をあずける時空は大虚である。かかる鳥の根源の淋しさの「端」は、「きらきらとことばのようにふるわせる羽」なのである。ここでの「言の葉」は意味をもたずして心魂にひびくもののごときだ。
・鍵穴のすきまからこぼれる光線を言葉と思いてすくいていたり
 ここでは「言の葉」は、不可知な向こう側から零れてくる光である。詩の予兆と言えば、うがちすぎだろうか。
・ことばもて散りゆく紅葉が光りつつ風の谷へとなだれ落ちゆく
 紅葉を「もの」と読ませている。自らを烈しく染め尽くして「風の谷」へ還る紅葉はもはや名辞を捨てた「もの」なのであろうか。いのちの終わりと始まりに立会う「言の葉」。 
・亡き母と心通わせ祈るとき空ゆく鳥のことば降りくる
 まさに死者の霊魂を呼ぶ魂乞の歌である。いにしえは鳥は魂をはこぶものと信じられていた。「鳥のことば」は、幽明を懸ける「言の葉」であろうか。
 ここに至って、私には本歌集名の由来となった次の作品の含蓄を忖度できそうだ。
・風が繰る白きノートの頁より発ちてゆきたる秋の言の葉
  実は、この作品の陰画というべき「もの吐くはさびしき行為書かざれば清き頁に風が憩うに」との作品もある。これはこととばに対するためらいを吐露したもの である。存在との直面をを妨げているのは、本当は思考の具であることばなのだ。にもかかわらず歌びとはことばにかかづらう。翻って、掲出歌にはこうしたた めらいはない。万象がくきやかに浮き立つ秋の光のなか、存在すなわち全体と響きあう「言の葉」の飛びたっていく。このとき「言の葉」は詩魂そのものなのか も知れない。
*「桜狩」誌寄稿原稿


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