詩歌鑑賞MENUCONTENTSへ

詩歌鑑賞I


堅牢にしてたおやかな世界●中川左和子歌集『花の雲』から



                                 中川左和子★歌誌「砂金」「やどりぎ」同人
 しずかに「詩」が宿った歌は、読む前、文脈をたどり歌意をうけとめる 前にその字面を眺めただけで、なにかいい匂いがしたり、甘美なひかりを 感じるものです。それぞれの言葉がそれぞれのいのちを鮮しくして、収ま るところに収まって「詩」を囲っている、そうした姿・形から来ているの ではと思います。  中川左和子さまの歌集「花の雲」は、まさにこの優れた表現のもつ恩寵 と不思議を改めて感じさせるものです。 ・銀杏葉が群なして散る日暮れどき風の訣れのひとときに会ふ ・明かあかと昇り来たるや月の船 風の厄日の穏やかに過ぐ  これらの歌は、すべての歌句がそれぞれの意味を担いながら、ひとつの 世界を構築する骨格としてしずかに収まっています。まるで日本舞踊の踊 り手が形を決める静止のさまのようです。以下の歌も同然です。 ・寒牡丹の風に吹かれて散り溜る重ね重なり花びら浄土 ・らふ梅の花のしづくの匂ひきてつばらつばらに空は凍てをり  それにしても、これらの歌の美しさは、古来の「雅」の世界を彷彿とさ せます。それは古典に造詣が深く、書の世界にも通じておられる中川さま が、そこで培われた美意識をお持ちのゆえと思います。もちろん、ただ華 麗なイメージを造型しているのではなく、人間の実存の深部に根ざしたお ののきをもって、巧みな言葉の周旋によって身めぐりの事象を雅の世界へ と高められています。 ・括られしままに斬られて残菊の月の光に照らされてゐつ ・弓なりに曲がりて咲ける虎尾草の星明りのなか尾を垂らしたり  「月の光に照らされる残菊」も「星明りのなかの虎尾草」も具象として の怜悧な存在感を保ちつつ、そのまま抽象化されたどこか不穏な異形の世 界のけはいを放っています。  ところで、書画では「気韻」という気高い趣が尊ばれています。気韻の 「気」には、万物を生成する根元の力・質料、つまり存在をいのちあらし めているものという意味もあり、気・気韻は、歌における詩・詩情に通底 しているようです。中川さまは書を通してその気と気韻を体感されていて、 それが詩をうがつ言語表現の堅牢さにつながっているのではと思います。 詩は存在全体の微かな消息のようなものであり、それに応答する心の琴線 の響きによって誘発されるものかも知れません。心をひそめ筆を運ばせる ように、吟味された言葉を調べることにより、歌という言語空間にたしか に詩を受止めておられるのです。 ・振鈴のごと降る声のひぐらしや日暮れに光る一木ありぬ ・日照雨降るこの昼下がり野の風にふれ合ふ芒の浄きおとする  事象、それも微かで細やかな事象に思いをめぐらせ、耳を澄ましている わけですが、心魂が対峙し気づいているのはそのたまさかの事象を含む全 体、つまり存在なのだと思います。詩は気づきの別称なのかも知れません。  なんども言及したように、一首一首ほんとうに丁寧に正確に言葉を選び、 しかも、あり余る思念や情感を抱えながらも、抑制されたたおやかな表現 に徹しておられることに感服するばかりです。だからこそ、心しずかに自 立した歌の世界を味読させていただけます。  詩の表現と自我の表明の決定的な違いです。

詩歌鑑賞MENUCONTENTSへ