詩歌鑑賞@


いのちのおののき●田土成彦歌集『樹下黄昏』から

      
   詩はテンテンテン、コツンと当たるもの   田土成彦さんとお会いしていたのは、二十数年前のことで、お互いに  二十代でした。私より少し年上です。その頃からずっと高校教師をして  おられます。たしか生物か化学の先生だったと思います。奥様の才恵さ  んも歌人で、夫婦そろって『地中海』という結社に所属されています。   いつ・どのような場で聞いたのかは、すでに失念したきりですが、田  土さんは「歌ができたと感じる手応え」について、「それはテンテンテ  ン、コツンと当たるようなものだ」と語ったことがあります。その後、  私はいろいろな詩論・歌論めいたものを読み、自分なりに考えることも  ありましたが、この「テンテンテン、コツン」にまさる明快な見識に出  会ってはいません。若干の補足をすれば、「テンテンテン」と配するも  のは言葉、五句であり、「コツン」と当たるものは「詩」です。つまり、  「テンテンテン」という言葉の周旋それ自体は「詩」ではない。それら  が「コツン」と当たって初めて「詩」への架橋が果たされるということ  なのです。  これは当たり前のことのようですが、本当はなかなかそのようにはい  きません。ともすれば、作者自身が「テンテンテン」の段階で満足して  まう。「詩」への架橋の以前に、自らの言葉、言い回しに自足して、  詩の表現というよりも、思考・感情といったものの生の叙述、その「雄  弁術」になりがちです。   前置きが長くなりました。その田土さんが、昨年『樹下黄昏』という  歌集を上梓されました。本当に素晴らしい歌集です。その中から、とく  に感銘をうけた作品をご紹介し、氏の「テンテンテン、コツン」という  詩のダイナミズムみたいなものを確かめてみたいと思います。  「遠き地平を望む」直立する人間   まず、次の歌を鑑賞します。  ・痛む腰庇ひて立てばかつてかく直立猿人が立ちし戸惑ひ  持病である腰痛の痛みをこらえ、なんとかその痛みをだましだましし  ながら立ち上がる。当然、その身体の移動において、作者の視野は高く  なり広がる。その日常の文字通りの立居振る舞いの一瞬、心のうちに閃  く思念がある。この足元のおぼつかない感覚は、おそらく「かつて直立  猿人が立ちし戸惑ひ」に似通っているかも知れない。田土流に言えば、  ここまでが「テンテンテン」なのです。客観的な事態を淡々と陳述した  上句に対して、下句の一つの思念をぶつけているだけの表現でありなが  ら、この二つのベクトルが相まって穿つものがある。それこそが「コツ  ン」と当たる「詩」だと思います。では、その「コツン」の響きはどん  なものなのか。その感受は読者にまかされています。また、作者自身も  明確に説明できません。この表現にて「コツン」と当たったかなという  微かな手応えがあるだけでしょう。   例えば、私はその「コツン」に、直立する人間の本質的なおののき・  よるべなさといったものを微かに感じます。人間は立つことによって、  大地に根を張る樹木、あるいは地を這う動物たちと違う次元に生きはじ  めたのかも知れません。この歌は、その是非を問うているのではなく、  ただ、一瞬の意識のひらめきとして、その原初のおののきを遠い木霊の  ごとく直感したのだといえます。  Aまかげして遠き地平を望むためヒトは直立の姿勢に立ちき  この歌は、そのおののきを反芻し、直立して在ることへの肯いを指し  示そうとしたものだと思います。「遠き地平を望むため」。定かならぬ  ものでありつつも、人間は霊長として「遠き地平」の彼岸を求めるべく  して在るものではないのか。この「テンテンテン」の向こうで響くもの  は、心の奥ふかくの希求の志、微かな意識の爆発かも知れません。  「幻影の人」の視点で見えてくるもの  以上の二首からも伺えるように、田土さんの作品には、西脇順三郎の  「旅人かへらず」の詩篇に出てくる「幻影の人」が持つような存在その  ものへの眼差しがあります。冷ややかで、それでいて優しい眼差し…。  B寸に足らぬ蝌蚪さへや人の影を逃ぐかかる恐れをわれら身にもち  その「幻影の人」は、この歌のように「寸に足らぬ蝌蚪」と全く同じ  内なる恐れに気づくばかりです。  C偶蹄類また奇蹄類地を駆くることにのみかくかかはりし脚  そうした視点は、「駆くることにのみ」に「かかはりし脚」という何  気ない指摘さえもを、なにかいのちあるものの根源的な寂しさの次元に  まで昇華してしまうようです。  とくに私が敬服することは、文脈の飛躍を抑制しながら、このような  深い詩想を表現されている点です。ともすれば重々しい概念的な置換え  にとどまりがちな直感を、確かなリアリティをもって淡々と描写風に表  現されていることは、作者の禁欲的な表現姿勢・表現に対するモラルを  感じます。  D思へばわれにかかる時なし繭ごもり近き桑子の透くうすみどり  人間の営みとはなにか。たしかに私たちは働き、社会を形成し、文化  を作り、営々として歴史を刻んできている。己れひとつをとってみても  数々の「行為」をくり返してきている。その悲喜こもごも、順境逆境の  転変の意味は知らない。こうした人間のいのちの在り様に対して、田土  さんは、次のように歌われる。「思へばわれにかかる時なし繭ごもり近  き桑子の透くうすみどり」。桑子は繭を吐くための変身をおのずから遂  げる。そのいっしんさ・その見事さはなにか。その恩寵のごとく、美し  いうすみどりに桑子は光りかがやいている。そのことの全体性に作者は  心うたれているのだと思います。全体(whole) という言葉は聖(holy)  に語源でつながっているとのことを何かの本で読んだことかあります。  しかるに、私たち人間はどうか。「思へばわれにかかる時なし」。なぜ  そうなのか。全体でなく部分としてしか関われない人間の問題とはなに  か。作者は我がこととして、この本質的な痛みと出会っているのです。   勿論、田土短歌は単なるシニカルな指摘に内閉していくものではあり  ません。むしろ、この世の論理を超えた世界「遠い地平」を望むために  作者は歌っているのです。「コツン」と当てることで癒されるなにもの  かがあるのかも知れません。おそらく、それが詩歌の恩寵だと思います。  以下、感銘歌を列挙します。  E両の手を垂れて大地に佇めばさながらわれも一樹のいのち  F這ふためにある前肢もろ肩よりぶら下げて時に重しわが腕  Gまぎれなく犬の目にして見られをりわれも見えざる鎖引きゆくに  Hもみぢ葉のいづこより来て舞ふならむ彼岸此岸のけぢめなきまで  I落花浴び樹下黄昏を過ぎゆけばわがうつしみのたましひは澄む                  ■ 「詩」とはなにかについて、いろいろな考え方があります。田土さん  の歌は、その純正の方向をたしかに感じさせてくださいます。  

                   

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